ばしこ氏のブログ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

エース「敗北者…?取り消せよ!!」がなぜネタになるのか~あの話でワンピース読むのやめた人の話~

敗北者で検索するだけでこの有様である。



 

ワンピース第573話 「この時代の名を”白ひげ”と呼ぶ」のワンシーンである。

 

僕はこの話が大っ嫌いだ

 

今まで積み上げたものをすべて台無しにするもので、僕は小さいころから(小学校くらいか?)ワンピースを16巻ぐらいからリアルタイムでずっと単行本を買い続けていたが、あの話をきっかけにワンピースを読むのをやめ、ちょうど高価買取のタイミングだったのですべて売り払ってその時の青春を謳歌するための金としてすべて使った。

 

それだけこの話で受けたマイナスの衝撃は大きい。

 

そんな話が、最近結構ニコニコ動画やらネット上でネタになっているらしい。

正直ネタになっているのは、いちばんはこの僕が大っ嫌いな原作573話のクオリティに起因していると思う。

 

だもんでこのブログでは、前半は573話、敗北者…?の元ネタの原作の出来に関して触れ、後半では「じゃあそれがなんでダメだったの?」「なんでネタにされてるの?」という部分に触れていこうと思う。 

 

以下、目次である。

 

①ワンピースを読み始めたころ

②573話を読んで

③解説:ストーリー構成が壊滅的~天才尾田栄一郎はどこに行った~

④解説:キャラの”個性”が死んだ日

⑤解説:なぜ、ネタにされるのか?

⑥終わりに:漫画に「作者」は出てきてはいけない

 

以上の観点から、解説させていただく。

 

 

 

 

①ワンピースを読み始めたころ

ワンピースを読み始めたのは確かエルバフあたり?だった。いや、チョッパーあたりだったかな?

なんか確か姉が「チョッパーの話が面白いらしいよ」と言って買ってきたような気がするので、そのあたりかもしれない。

ともかく、ワンピースを買ったのだ。

 

 

 

ONE PIECE 16 (ジャンプコミックス)

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 ↑初めて出会ったワンピース

 

なんというか、いろんなものがたくさんぎっしり詰まっていて、世界観がしっかりしていてとても面白かった。

今も思い返して思うのが、不思議な国々から描く人間模様、戦争や国同士の争い、そのどれもをとっても、バックボーンをしっかりとしたうえで描いていた。

だから今読んでも色あせないだろうし、納得感がある。

それを昔はよくわかっていなかったが、昔はともかく「なんかぎっしり詰まってるー!!!!」という喜びからずっと読み続けていた。

新しい世界や島がどんどん出てきて、文化もわからぬ国に飛び込んで生きるのか死ぬのかをさまよう感じがとてもよかった。

あのワクワクは忘れられないものだと思う。

アラバスタが終わり、空島に行き、空島が終わり、スリラーバーグに行き…

もちろん途中で「えー」と思う話もいろいろあった。

(スリラーバーグの影のやつ、七武海にしては弱くない?とか)

ただまあそんなにがっつり気になることもなく読み進めた。

 

ウォーターセブンとか、インペルダウンとかで盛り返したしね

ウォーターセブンとか、CP9のどきどきはやばかった。あそこでギア2の初登場も死ぬほどかっこよかったし、ロギア系最強と思っていたのに、ロギア系以外に殺されるかと思ったほんとに。

あそこのドクドクの絶望感は本当にやばかった。久々にインペルダウンは本当に主人公死ぬかと思った

 

ともかく、僕は漫画で「はい、これどうせ勝つやろ」とかなるのがめちゃくちゃ嫌いだった。

常にワクワクドキドキさせてほしかった。

そんな中でワンピースは本当に常にワクワクドキドキ、本当に主人公死ぬんちゃうかとマジで思わせためちゃくちゃおもしろい漫画だった。

 

②573話を読んで

それでそのまま、白ひげ戦争編にうつっていくのである。

そして魔の573話にうつるのである。

 

読んだ感想が「は?」であった。

 

なにもかもが納得いかなかった。

今まで納得いくものだらけで、しっかり何巻も前から伏線も張って、ビブルカードも30巻以上前からだしといて、そんなこんなでストーリー構成を必ずしっかりきっかり描いてきた作家が、なんだこれは。

 

なんだこれは????????

 

茶番か?

なんでこんなに長きにわたって続けた戦争をこうもあっさりと終わらせる????

何巻続けて、何巻も前からさんざ伏線はっといてこれ?????

 

 

これ以降、僕は読まなくなり、ワンピースをすべて売り払った。

この高校三年生の時の話はいまも忘れない。

 

以下、573話を解説していく。

 

③解説:ストーリー構成が壊滅的~天才尾田栄一郎はどこに行った~

ストーリー構成が本当に壊滅的だった。

たぶん意図としては、「ここで突如予期せぬ兄の死が!」としたかったんだろう。

だから普段しっかり伏線をきっちり張って、しかもそれを読者に察知させぬ尾田栄一郎先生らしからず、「エースが死ぬための要素」が、すべて初出で、この話に集まってきた。

 

・白ひげを「敗北者」と言われるのは許せないエース

・マグマに弱いエース

・エースが助けざるを得ない状況になるほど、弱ったルフィ

 

これをあろうことか、「一話」にすべて詰め込んでしまった。

それはどこか、積み上げを、伏線を張ってほしかった。

一個ずつ「なんで唐突に出しちゃダメだったか」を書いていく。

 

・白ひげを「敗北者」と言われるのは許せないエース

これが本当に納得がいかなかった。人の怒りを買うというのは、しっかりと積み上げがされていないと納得がいかない。しかも赤犬がぽつんとつぶやいた言葉に乗っかるのであれば、普段よっぽど冷静だけどこの時だけはどうしても許せなかった、とか、昔そのひとことでキレたとか、そういうエピソードが少なからず必要。

あるいは、赤犬のほうの言葉にしっかりと重みをもたせ、「これはエースは怒ってしまう」という納得感がなければならなかったと思う。

 

しかし実際赤犬も「?(なんで怒っているの?)」という感じだったし。

 

そもそも赤犬は海軍側の人間である。

例えば同じ同族かつもともと仲間だった黒ひげが白ひげを馬鹿にするということに対してエースが怒って乗り込んでいくのはめちゃくちゃわかるわけである。

だからそれをやらかして捕まった、となったとしても、「何してんねんww」とはあんまりならず、怒りにまみれる理由も、周りの制止を振り切って黒ひげを倒しにいくのも、非常に合点がいく。

それを海軍側の人間に言う???????という感じである。

そもそも海軍側は当たり前だけど海賊の敵なんだから、普段から海賊を侮辱するでしょうよ。

赤犬に「白ひげは大海賊だ!!」と言って何がしたいのか??????

それが全く分からない。

ほかの例も挙げよう。

例えば白ひげは自分の威厳を使い、色んな町や村を「白ひげの縄張り」とすることで守ってきた。

それを「あんなの無意味じゃ、なんの役にも立っとらん」とか言ったりしたら、「お前ら政府は町を!!!!村を!!!!何を見ていたんだ!!!!!!お前らがやるべき仕事だろうが!!」とか怒る、とかまだあるかもしれない。

もちろんこれには「無能な政府」と「悲惨な村」、「白ひげによって守られた村」というバックボーンはしっかりと必要だが。

 

ともかく、「突発的に怒る」というところは、自分のプライドに触れる部分であらねばならず、エースの怒りはあんまりにもプライドもくそもなかった。

海軍からのあんな一言で怒るなら。普段から海軍を死ぬほど嫌ってなきゃあかんかったと思いますね。普段から大嫌いで死ぬほど憎んでて、その上で「敗北者」と言われたからブチ切れ、とかね。

わりと淡々としているわりにあんな一言でキレても納得いきませんよね。

 

・マグマに弱いエース

これは後述④の項目でも詳細を書くが、「マグマに弱い」があんまりにも後付け過ぎるでしょう。納得いかない。

例えば第279話「海賊ルフィvs神・エネル」にて、ロギア系で雷系の能力者のエネルとルフィが戦うところも、割としっかり一話かけて「ゴムの能力だから雷きかないんやで」という解説に専念していた。これは正直一コマで済ませていいかもしれないが、ちゃんとそこはしっかり時間をかけて説明を行うことで、能力に関する納得感を読者から獲得した。

そのうえ、その後の戦闘においても、「雷が聞かなくても方法はある」と、電熱で挑んできたり、槍で挑んできたり、方法を変えて戦っており、あの戦いには能力者のメリットデメリットがしっかりと読者に伝わったうえで、見ごたえのある戦いだった。

そこまで丁寧にしていた作者が、「マグマは火を焼く」というあまりにも根拠がない情報をたった一コマの説明で済ませた。

それがあまりにも、今までと比較して雑な仕事すぎる。

 

 

能力なんだから、そこは解説を文章で入れるのももちろんだが、普段の戦いの描写とか、そういうところで読者に何となく伝えなきゃダメでしょ。

 

www.logsoku.com

 

ワンピース573話が出た際のスレッドだが、この時点ですでに納得がいっていない読者は多い。

(以下、引用)



(このスレはほとんど「マグマは火に勝つ?どういうこと?」が議論の中心だった)

実際にどうか?という部分もそうだが、「納得させられるか?」が漫画には大事であって、先ほどの「ゴムは雷が効かない」も、なんとなくわかるかもしれないが、「いやもっと強い雷当てたらゴムでも通るぞ…」とかそんな事態にならないように、一話かけて丁寧に説明して、「ここでは1億ボルトでも効かないとしますよ」って読者に言い聞かせて納得させたのだ。

明らかに今回は読者の納得を勝ち取れていなかったように思う。

 

・エースが助けざるを得ない状況になるほど、弱ったルフィ

ここもさあ…

ルフィがもともと弱っていたのはまあわかる。

ただ、これも「いきなり」出てきたわけである。

最後のほうで「ウウ…!」「おまえ!もう限界だ!」とか言ってて。

それで赤犬は襲うっていう。 

 

作られた、助けざるを得ない状況、感がとてもあるんですよね。

はい、死場を用意したんで、どうぞ、というか。

 

しかもあんなマグマ体ひとつで防げるんか????????

という疑問もかなり大きい。

これ自体は、そんなに大きな違和感はなかったかもだが、「突然出てきた」という部分にやはり疑問を抱かざるを得ない。

まあこれはまだ前述の二つと違って

・一回倒れかけている

・そのうえでテンションホルモン打っている

というところで、ある程度「限界がきている」という根拠はまだ出ていたので、これはぎりぎり許せる範囲と言ったところか。

 

逆にほかの要素が一切なく(敗北者にキレるエース、マグマに弱いエース、など)、これだけが唐突に出てきてエースが助けて死ぬほうがまだ納得がいっただろう。

白ひげになんとか助けてもらったエースだが、白ひげの「仲間を、家族を大事にする」という気持ちを引き継いで、自分の命を弟に……と。

しかしそれなら最初からそれをメインで描いておくべきであって、終始ルフィがピンチになっている一話である必要があったかと思う。

 

④解説:キャラの”個性”が死んだ日

先ほど挙げた三要素

・白ひげを「敗北者」と言われるのは許せないエース

・マグマに弱いエース

・エースが助けざるを得ない状況になるほど、弱ったルフィ

だが、どれもこれも「最低でもそれぞれに一話かけて丁寧に説明すべきだった要素」であり、それをすべて一話に詰め込んでしまった結果、何度読み返しても、「エースをこの話で殺したい、かつそれを察知されないように一切の要素をこの話で無理やり出してきた」という作者の意図がめちゃくちゃはっきり見えてしまうのである。

 

僕はそういうのが大嫌いだ。

その瞬間、キャラは死ぬのである。

 

この話が描かれた瞬間、僕の中でエースは死んだ。

それは最後のコマで生命を落としたからとかそういう話ではない。

エースがただの「漫画のストーリーを進めるための舞台装置」として成り下がり、キャラの個性そのものが絶たれた、ということを言っている。

 

極論を言えば個性は死んでいないかもしれないが、仮にそうだとしたら「命がけで助けようと戦争まで起こし、あまつさえ自らの命さえ捨てた白ひげ船長、それらのすべての想いを安い挑発たった一言ですべて台無しにしたクソ野郎」という最悪の個性しか残らないのである。

それだけ、あそこで「怒って食ってかかる」ということは大きいことであって、それをあまりにも甘く見すぎだろう。

 

あの話で、エースは死んだ。

仲間のために怒り、弟のためにがんばる、かっこいいエースは死んだ。

その個性は永遠にみじめなものとして扱われ、僕が子供のころから好きだった、エース像そのすべてはぶち壊しとなり、顔に泥を投げられ、みじめにマグマに焼かれ、ネット住民のおもちゃとして散々嬲られた。

 

エースは死んだ。そういう話である。あの話は。

 

⑤解説:なぜ、ネタにされるのか?

まあちょいとまじめに表題について触れますか。

だいたいお分かりだろうが、答えは簡単、エースがクソ野郎にしか映らなかったからである。

ようは、途中③④で解説したように、エースが突っかかる理由を無理やりに作ったがために、エースが「大きな戦争まで起こして、あまつさえ船長は死んでまで助けてくれたのに、それをくだらない煽りで突っかかって勝手に死んだクソ煽り耐性低いマン」となったのである。

だからネット上でも「敗北者…?取り消せよ…!」とか言うだけで大爆笑である。

ニコニコでも大人気の図(敗北者 というキーワードで検索した図)

 

それだけ「いやどう見てもおかしいでしょ…」となったお話はやはりネット民にネタにされるのである。

特にネット民は、物語の違和感や、定番モノに敏感である。

明らかな打ち切りを示す「俺たちの戦いはこれからだ…!」とか「やったか…!?」(敵を倒したと思った時に言うセリフ。だいたい倒してない)とか。

そういうセリフって、言ってしまうと「あ、これ打ち切りなんだな」とか「あ、これ負けるんだな」と読者を萎えさせてしまう。

それは作品としてはダメで、作品の欠点ともいえる。

そういう作品の欠点が、ネタにされやすいのだ。

物語の違和感、で言えば、テニプリやブリーチもよくネタにされる。

(馬の上乗ってテニスしたり、テニスで人が死んだり)

テニプリは方向性が違うので今回の話のネタとはわけが違う。

というのも、テニプリはある程度前段階を踏んでるし、面白く映っても、それ込みで楽しめる漫画になっているからだ。

どっちかというとブリーチのほうが近いかもしれない。

ブリーチはよく「すべて月島さんのおかげだ…!」「俺自身が斬月になることだ…」とかよくネタにされるが、それも結局、どこかネット民からは「?」と疑問符が浮かぶストーリーだったからだろう。

全く真面目なシーンは、それをコラにする以外でバカにされることはない(イタチめろめろやめろめろ!とか)

まあブリーチの記事ではないのでそこがストーリー上正しかったかどうかは置いておくにしても、基本的にネタにされるのは、「ちょっとおかしい、浮いている」ところなのである。

だから今回も「敗北者というキーワードだけで怒る」という部分が浮いていたから、「敗北者」がキラーワードとなり、「敗北者…?」とか「取り消せよ…!」とかがもはやネット民のネタワードとなってしまった。

まとめると、

①「敗北者」というキラーワードの存在

②キャラクターが滑稽に見えた

この二点が大きい。

 

 

似た事例を挙げよう。

鉄血のオルフェンズより「止まるんじゃねぇぞ…」のネタについてである。

(鉄血のオルフェンズのネタバレ有りなので注意)

dic.nicovideo.jp

 

これは鉄血のオルフェンズを知らないが見たことがあるという人が結構いるんじゃないだろうか。

これも簡単に解説すると、結局脚本家がどうやらもめたらしく、色んな急展開やストーリーの粗が出てきていたそう。そのうちの一つとして、オルガ・イツカというキャラが……。と、なったそうで、それも結局、オルガ・イツカの行く末が「意味がわからん」と視聴者からなったこと、「これ脚本に振り回されてね?」となったところ、そしてポーズと言葉が面白かったところ…。 

 

 

これはかなり「敗北者」とも共通点がある。

これから見るに、ネット民はやみくもにネタを量産していると言うわけではなくて、

「この作品やっていることおかしいぞ!」と揶揄するための、作品に対する

アンチテーゼ、批判としてこういうネタを量産して小馬鹿にしている…。

というところはあると考える。

 

 改めて敗北者動画見てみよ

www.nicovideo.jp

やっぱめっちゃ滑稽ですね。ウケますね。

ちなみにはたまた補足すると、ざっと2chの過去ログを探ってみたところ、この海賊ラップが投稿される前にはそんなにスレタイには「敗北者」を使われるシーンはなかった。(本文検索したかったが、さすがに5年前は追いきれなかった)

 

連載当時のスレにも、どっちかというと「マグマは火に勝つ」というところ、「無駄死にした」という部分のほうが大きくピックアップされ、あまり「敗北者」というワード自体が大きく取り上げられることはなかった。

うーん、やはり動画がきっかけなのだろうか。まあそこはおいおいで。

 

⑥終わりに:漫画に「作者」は出てきてはいけない

ここで言う「作者」とは、別にメタ的に作者が登場人物として登場する、という意味合いではない(キャラと作者が話してる、とかね)。

漫画の裏に作者がいて、これは作者が意図して作っている「物語」なんだな、ということを意識させてはいけない、という意味である。

作者が言いたいことを無理やりキャラに代弁させるとか、話の都合上キャラクターを無理やり増やすとか、そういうところである。

そういう、「アッ、これなんかこのキャラいきなり変なこと言い出したかと思ったら、作者の個人的な意見か~~」とか、「アッ、これもうすぐ話終わりそうだから終わらんようにキャラ増やしたのか~~~」とか、舞台装置がはっきり見えたら誰だって萎える。

テレビドラマで特設のセットの裏側が見えることがあるか??

ディズニーランドでミッキーマウスがいきなり頭外して中のおっさんが「どうもー!」っつって出てくることがあるか?

それらは世界観を守るために必ず見えないようにする。

 

そういう「舞台装置」が見えたら、その瞬間、冒険の世界に飛び込んでありったけの夢をかき集めていた少年は、集英社編集部の打合せ卓で「ここでキャラ殺しときたいよね~」と無慈悲なことを言っている編集者たちの中にぶち込まれ、全てはただの現実に成り下がっていく。

 

だから、尾田栄一郎先生は、そういう舞台装置が見えないように、しっかり入念に考え、初期からキャラデザインや設定を考え、2巻の時点で50巻あたりに出てくるキャラクター(レイリー)のデザインを決めていたりしていた。

なのにこの、一話だ。

誰がこんな話を作った?

尾田栄一郎氏か?

編集か?

先生自身で作ったならなぜ編集は止めなかった?

編集が作ったのならもはや問題外だが。

 

ともかく、この一話でめっきり読む気を失った。

まあ、この話を忘れられるくらいようやく続編がたくさん出たので、ぼちぼち続きを買ってもいいかなとは少し思ってはいるが。

 

ぶっちゃけそもそもこの話自体取り消してくれないかなあ。

 

取り消せよ!…573話の存在を…!

 

はい。今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

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 ↑どこにワンピース要素あるかわからんやつ

 

 

まあワンピースはいいから俺の好きな漫画を読んでいけ

 

 

 

845.hatenablog.com

評論・谷川流「絶望系」 新潮は何を考えて復刊させた?

※先に言っておくとちゃんと一冊きっちり読んだ上で批判してるので最後まで読んでいってね。

ちなみにライトノベルの批判でもないので。

 

谷川流

 

涼宮ハルヒの憂鬱の作者として有名である。

作者よりも作品のほうが有名だが、まあそもそも涼宮ハルヒシリーズを完結させるのにも時間がかかったし、それ以降の作品もそんなに出していない。

 

しかし涼宮ハルヒシリーズが業界のみならずその時の中高生に与えたインパクトは大きく、そのタイトルを書いた作者、というだけで信頼感はでかい。

僕もその実績を信頼して、この「絶望系」を買った。

新潮文庫nex

 

絶望系 (新潮文庫nex)

絶望系 (新潮文庫nex)

 

 新潮文庫NEXで初めてこの存在を知り、買った。

一応元々電撃文庫でも出てたらしい。

 

んで、ためしに読んでみた。

 

 

すこしワクワクしながら、ページを開いた。

 

くっさ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

警戒全開。

明らかにクソつまらない典型的萌えラノベ臭しかしない。いや、萌えラノベが嫌いな訳じゃないが、このレーベル、この表紙で「萌えラノベ」を求めに来るわけないじゃん。

えっ、八百屋で何でゲーミングPC売ってんの??????って感じで、別にゲーム好きだけど野菜選んでるときに出されても………って感じで。

 

頑張って読もうとした。

結果僕は読まなくなった。

あんまりにも受け入れられなくて、ダメだった。腹一杯で居酒屋のコースの最後にいきなり大盛りとんこつラーメン出される感じですよ。違う、違うんですよ。とんこつラーメン好きだけど今じゃないでしょ。違うんですよ。

というわけで冒頭胃もたれを起こしてしまい、どうしても読み進めることは叶わなかった。

 

 

さて、しかしそこから4年経って、いい加減ちゃんと読んで批判するか、と思ってきっちり最後まで読んだ。

 

うーん……………………

 

とてもつまらなかった。つまらなかったが、つまらない、の一言でなるべく片付けたくない。

読んだ時間がもったいないのもあるが、谷川流ポンコツな訳ではない、なぜつまらなくなったのかを追求したい。

あとやっぱり断片的に面白いところがあったので、ちょっともやもやの残るつまらなさだったのだ。つまらないのはつまらないが、じゃあどこが具体的に悪かったのか。どうすればよかったのか。

それを追求したいのだ。

 

というわけでようやく目次に入る。

以下の観点から谷川流「絶望系」(新潮文庫nex)を批判しようと思う。

 

①入りが最悪~クソラノベ~

②半ばは普通~谷川流の実力~

③オチが最悪~ひぐらしの二の舞はやめろ~

④総評:「絶望」を軽々しく書くな

新潮文庫nexはいったい何を考えている?

⑥おわりに:小説に大事なもの

 

以上6項目を順に追っていきたいと思う。

特に⑤が重要なので読んでいただきたい。

ネタバレもろに入るが、それは一切気にしない。今後この作品を読む人はいないと思うので。

 

①入りが最悪~クソラノベ~

ぶっちゃけこれは最後に批判する⑤の部分、新潮文庫がヘマやらかした部分が大きいが、表紙やレーベルの雰囲気と比較して、あまりにも「典型的萌えラノベ」のノリが頭っからキツすぎる。

まあここの詳細は⑤で書くにしても、突如「天使」「悪魔」「死神」「幽霊」がでてくるのだが、世界観があまりにも不安定すぎる。

結局しばしチラチラ重い言葉を使って現実に引っ張ってくるわりには「ちょwwwwwwwwおまwwwwンッフwwwwwwww」とかいうコメントが画面上を流れそうなほどくっさいラノベ調なノリも多い。

別にそういうラノベを批判しているわけではなく、それは「終始一貫そのノリなら楽しいし気にならない」のであって、重い雰囲気にそんなロリコンだのフッやれやれ系が出てきたりすると頭がショートを起こす。

つまり「ノリの上げ下げ」があんまりにも激しすぎるのだ。

ラノベの軽いきゅるりんなノリを貫くには、現実の一切合切はガン無視せねばならず、そのためには重い話なんざいれている余裕はない。

重い話に入るのであれば、丁寧にその道筋を作ってやらねばならない。

だが入りでこれだ。

簡単にいうと、「読者に「こういうノリで読んでねー」という意思表示ができていない」という状態である。

ラノベラノベのノリがあるように、例えば僕の好きな円城塔のように「細かいことは気にしなくていいよ!イメージするのむずかしいよ!」というノリで書いてある文章、はたまた伊藤計劃のように「具体的なイメージ浮かぶように書いてるよ!」という文章もある。また「これミステリだよ!」「SFだよ!」「特に意味のない現実の話だよ!」と、いろんな、事前告知が必要なのである。なにせ読者の妄想力は無限大。大枠は決めてしまわねば、無限になにもかも読者は思い付いてしまう。たとえば、ただ夏の日に田舎のばあちゃん家でのんびりするだけのお話だったにしても、「これ現実ですよー」と導入部でちゃんと思わせておかないと「実はこのばあちゃん宇宙人なのでは!!?」と読者がいらん方向に疑ってしまう。冒頭の方で、「読者にどういう心構えで読んでほしいか」を、込めた上で小説を書く必要があると僕は考えている。

 

それが全くできていない。

だから僕は初っぱな読んで、これだーめだとおもって読むのをやめたのだ。

 

②半ばは普通~谷川流の実力~

しかし谷川流ハルヒの作者。

それはさすがに嘘はつかんだろ。

と思いなんとかゲロ吐きながら読み進めた。

 

ま、それ以降は死神と天使と悪魔と、杵築と建御という男たち、ミワとカミナという姉妹、そのあたりの絡みがずっとかかれながら、どうやら幽霊は通常の幽霊で、死神はその幽霊の魂を狩りにきたということがわかり、幽霊がなぜ幽霊になったか?とりあえず成仏してもらおうという流れになる。

 

まあ最初を越えてしまえば、なんとか慣れてきて、キャラクター像のイメージもできるようになってくるし、話もいい感じに進めていく。

ここのあたりの展開のなめらかさはさすがというべきか。

ここのあたりで今のところ特に言うことはない。

 

まあ、それはラストまで読んでないときだけ言える話で。ラストが最悪な原因は、結果的にラストとこの中盤の噛み合わなさが原因と思われる。

 

③オチが最悪~ひぐらしの二の舞はやめろ~

僕は、好きだけど嫌いな作品、としていつもひぐらしのなく頃に、をあげる。

ストーリーやキャラは好きなのだが、オチが最悪なのである。

ひぐらしのなく頃に、は、ストーリー展開は最高で、ただそのオチがダメすぎた。雑すぎた。

 

それと似たような形である。

 

オチがなにもかも雑。

オチで「あーなんか言いたいんだな」ということはわかるが、という程度にしか思わんぐらいのよくわからない語りが入る。それはタイトルの「絶望」にも絡む話だが、そもそも中盤でそこのあたりの根拠になる部分の話がほとんど出てこない。

さっき名前を上げた「カミナ」が、最終的に悪魔を呼んだり、幽霊になる前の人間を殺した人物なのだが、それに向かうまでの「納得するストーリー筋」が全くといっていいほど書かれていない。申し訳程度の「こいつ残酷な人やで~」という他者からの目線しかかかれておらず、本人の描写が少なすぎて、オチのメインに持ってくるには何もかも足りない。

先ほどの項目で書いたように、あくまでも中盤のメインは「天使と悪魔と死神と幽霊」あたりなのである。あとはその異世界人と男二人の絡みに、チラチラと姉妹が出てきたりするくらいで。

その姉妹をもっと書かなきゃいかんのに、書かんでもいいわ!ってくらい天使とか悪魔とか死神を書いてた。

これはオチが悪いと捉えるか中盤が悪いと捉えるか難しいところだが、少なくとも中盤は文章やそれ単独で見たストーリー展開は好きだったが、ラスト周辺はオチも文章もめちゃくちゃビミョーだったので、結果的にオチが悪いと思う。

せっかく中盤よかったのにそれをオチでぼっかんと何もかも台無しにしてしまうのはマジでよくない。

一冊読みきってくれた読者を完全に裏切る行為だからだ。そんなら冒頭くそなだけのほうがまだいい。販売戦略としては頭と中盤がよけりゃいいかもしれんが、今後作家としての信頼をなくしていく。

事実、先ほど名前をあげたひぐらしも、ひぐらしが爆発的に売れたあと「うみねこのなく頃に」という作品を出してこれもまた売れたが、これもまたストーリー展開は面白いがオチが最悪で、二度も繰り返したせいで作家としての信頼は大分落ちて、以降の作品はほとんど話題にならなかった。

誰か竜騎士07にオチの書き方だけでも教えろ。

 

話が脱線したが、ともかく今までのストーリー展開でこのオチはない。

材料が一切足りていない。話の中盤というのは、オチに向かっていろんな説得力を積み上げていく段階なのに、積み上がったのはただの「死神というキャラクター」「天使というキャラクター」そのあたりの話であって、もちろん謎解きはある程度していたが、明らかに足りない。

ビックリするぞ。

カミナさんの描写ほとんどなかったのに、幽霊さんが殺された状況をみていきなり

「殺したのはカミナだな」「ああ、間違いない……」「話を聞いた瞬間わかった、ああいうことをするのはカミナしかいない……」

とか登場人物が言い出して「??????????????」

とパニック状態に読者がなっているのをガン無視でカミナが犯人!と当たり前のように話が進んでいくのだ。

なに登場人物だけで納得しとんねん。これは小説やぞ。読者が納得する書き方をせんかい。

 

④総評:「絶望」を軽々しく書くな

一応タイトルが「絶望系」なのもあって、ラストの方ではカミナの殺人とか悪魔呼んだりしたことの動機が、絶望に絡む話にしてある。

ここで僕はめちゃくちゃ怒ったのである。

絶望、を軽々しく書きすぎだ。

絶望は、人によって、その人の状況によって、感情によって、生きてきた人生によって、いくらでも形を変えうる。

もちろんわかりやすい形で言えば生命が危うい状況が絶望だろうし、しかし人によれば大学受験に落ちたことが絶望になりうるし、大学退学もそう、はたまた好きな歌手のライヴに落ちたとかもそう。

以前見たはてなブログで、親がやたら教育マンで中学受験からさせられて、そこから1日10時間ほど勉強し続ける人生が当たり前のように続き、それでも東大に受からなかった話があって、それのほうがよっぽど絶望を感じた。

なぜか?それはしっかり積み上げをしているからである。

努力の過程、そして「自身の人生に占める割合」がどのくらいか、つまりは「それに失敗したらどれだけの絶望があるか?」がしっかりと伝わる文章となっていた(まあそのブログはあくまでも「東大の難しさ」を語るブログで、「絶望」を教えるブログではなかった)。

そんなブログに負けるくらい、絶望に関する根拠が弱すぎるし、とりあえずグロ出しといて「はい絶望~~~」ってしてるのがあんまりにも絶望を軽々しく書きすぎている。

あきらか中学生向けの文章である。

このラストにしたかったのなら、天使だの悪魔だのはほとんどほっといて、カミナと杵築を中心に「絶望とはなにか」を深掘りしていくように書かねばならなかった。

あんまりにも絶望が浅かった、と思う。

 

新潮文庫nexはいったい何を考えている?

正直なぜ「作品」の批判ではなく、「出版社」「レーベル」の批判なのか?と思われるだろう。

しかし、自分としては正直以前の「アスキーメディアワークス文庫」のバージョンであればまだマシだったように思う。

 

 表紙もこんなだし、この挿し絵で頭っから「こんなキャラ出てきますよ~」というイメージに関する補足がある上に、ラノベ感あふれるイラストなので、冒頭の「ラノベ臭さ」みたいなものは特に気にならない。読む前からそういうノリであることがある程度予見できるからだ。

 

だがしかしあくまでも「キャラ文芸」「ライト文芸」として名乗りを上げた新潮文庫nexが、表紙をカッコつけて再度販売するというのは、何もかも間違っているし、作品の良さを何もかも潰しているやり方で、本当に何を考えているのかさっぱりわからない。

 

実際この小説はあんまりにも根拠が足りない。

つまり、イラストなど、他の要素で補足しなければならないのだ。

だから正直エロゲーのシナリオ向きだなとは思った。音楽やイラスト、背景で雰囲気を伝えることで幾分かはマシになるだろう。

 

しかし新潮文庫nexはあろうことか、ただでさえ足りていなかったイメージを更に削り、あまつさえ表紙も変え、全くお門違いのレーベルで発刊したのである。

新潮文庫nexはいったい何がしたいのか?」

「ネームバリューのみで売ろうとしたのか?」

と思われても仕方のないくらい、非常に手抜きの仕事である。

 

まあおそらく後者であろう。

おおかた新レーベルができたばかりで、キラータイトルがいくつか欲しいから持ってきたのだろう。しかしそれは最終的に新レーベルのイメージを初っぱなから落とすことになり、トータルでは明らかに損だと思うのだが。

 

⑥終わりに:小説に大事なもの

さて、ここまで評論を書いてきたが、やはりどうしても一番大きいのが、「ライトノベルが悪い」のではなくて、「ライトノベルですよーという告知、が表紙からもレーベルからもなにもかもできていないことが悪い」というところである。

だから繰り返し言うが、新潮文庫nexは本当に最悪の仕事をしたと思う、ホントに何を考えている?

 

小説で大事なものは「入り」である。それが良くなきゃそもそも読み進めることすらできない。

だから表紙や帯、話の冒頭は本当に重要になるのである。

そこは大々大前提である。

そこが悪くてオチだけよくても、そこまで読んでくれない。

出版社、作者、その両者がうまく入りを作れなかった結果、再刊してさらに酷い出来になるという最悪の事態となった。

 

新潮文庫nexがなぜ復刊させたか?

まあネームバリューのある本が一冊ほしかっただけでしょう。

 

そうとしか言えない。

作品自体の悪さだけじゃなくて、「作品を理解しようとせず」「作品の良さを削るような形で発刊した」というこの二点が、新潮文庫nexの罪である。そんな中で「いやこの作品はいい作品なので伸ばしたくて………」とか言われても「ほーーーん??良さをわからん俺よりも作品の理解甘いあんたがいうんや????」としか思わない。

これを復刊したい!!!って愛があるならしっかり良さを生かしてほしいし、そうでないなら売るな。

 

久々に怒りに満ちた小説だった。

 

 

 

ツイッターやってますんでこっちでもいろいろつぶやきますよ 

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コラム・いっこく堂。

あれ、声が、遅れて、聞こえて、くるよ。

 

僕の場合は言葉が遅れてやってくる。

感情が常に先。

なんというか、なにか衝撃的なもの、小説や映画や、人の話、を受け取ったとき、びりっときて、ごうごうと夢やら言葉やら感情やら映像やら、色んなものがごった煮になりながら猛烈な嵐を引き起こしているのだ。

しばらくそれは落ち着かなくて、そこから言葉を出そうもんなら、荒波に揉まれながらなんとか浮き輪をつかむような、そんなかんじの言葉選びしかできないので、「あの、あの、なんか、よかった」とかしか言えなくなってしまうのである。

 

だもんで言葉が猛烈に遅れてやってくる。

 

しかし難しいもので、遅れてやってくるといっても、遅すぎてもダメなのである。

言葉を出すのに適切なタイミングってもんがあって、それを逃すと急速に風ひとつたたない穏やかな海になってしまう。

荒波を求めたサーファーが、「いやいや波強すぎ」と待っていたら、結局その波すら一切たたなくなってしまった、そんな感じの悲しみが最後に残る。

 

まあでも、文章を書くのはそれとは違う。

サーファーは波がないとそもそもサーフィング自体どうやったって出来ないが、文章を書くことに関しては、スマホか紙とペンがあればなんとかなる。

サーファーは別に波が来るのを待つのは構わないが、僕らは、なんだ、「書くのに最適なペンが、見つかるのを待っているんだ………」「執筆に最適なスマホが発売されるのを待っているんだ……」とでも言えばいいか?そんなのそれだけで話が一本書けてしまう。

たぶん執筆に最適なペンを探す旅に出掛けて、ペンを作ってるお堅い職人に会って「てめぇに作るペンはねぇ、帰ってくんな」と言う職人の心をなんとか開かすためになんか小説を書いて、「ふん、荒削りだが、なかなかじゃねぇか。いいだろう。ペンを作ってやるよ」と言わせて伝説のペンを作ってもらうのだ。

 

話がそれたが、そんな伝説のペンができるまで待っててもしゃーない。

そんなことをしていたら日記ひとつ書くのに人生ひとつ使い潰してしまう。

というわけで、さっさと吐き出してしまったほうがよい。

 

もちろん僕は感情の荒波が唸りまくっているときはなるだけ書かないが、ちょっとでも落ち着いたなと思った瞬間に「いまだっ」とすぐに書くようにしている。

それがなければ、延々に書き進めないまま頭の中に永久保存されてしまうので。

 

そうして、まあ、文章を書くことに関しては、感情のコントロールがまだできてるかなと思うわけだが、実生活ではめちゃくちゃ大変である。

基本的に大体の人が、たぶんそんなに脳内大氾濫が起こらないのだ。

だから思ったものそのまま出したところで困りはしないので、僕らが「ヘンなやつ」として写ってしまうわけである。

ハッキリいってそれは感性の違いなので、どうやったってお互い理解し会えないと思う。

 

一番思うのが、「空気の読み方」である。

「空気の読み方がうまいな~」と思う人は、センサーの入り切りがうまい人と、ただセンサーは鈍いが一般的な価値観というものを理解しているだけの人がいる。

僕らはよく「空気が読めない」と言われる。

しかしそれは「鈍感」なのではない。

あらゆる情報が入りすぎて整理できないのだ。

目の前にいる人の悲しみだとか怒りとか人生の疲れ具合とかなんとか、そんなものがいっしょくたにグオッとくるものだから、それに瞬時に対応しろったって、僕は聖徳太子ではないので10個の感情が「めちゃくちゃきついです」「楽しいです」「今日は早く帰りたいです」「めちゃくちゃテンションあげたいです」とかなんとか一気に言われて整理できるわけがない。

だから目の前の人に対する最適な対応、を考えるうちにあわあわなってなにもできなくなる。

言語によるコミュニケーション、めちゃくちゃむずかしい。

よくいる「人見知り」は、たぶん僕みたく、「センサーがききすぎる」タイプの人は多い気がする。そういう人はわりと人間の色んなところをしっかり受信しているので、創作活動するといいよ、うむ。

 

最終的に結論をいうと、「創作活動いいよ」というお話がしたかったのに、なぜか色々脱線してしまった。

創作活動は蛇口の形が違うので。

感情をとどめてる蛇口ね。

 

結局、会話や仕事でアワアワなるタイプの人々は、蛇口が、あってないのである。

だからドバッとでたりチョロッとしか出なかったり、でめちゃくちゃ苦戦するのである。

 

僕にとって、文章は蛇口の形とサイズがちょうどいい。

アワアワと氾濫しまくっている感情の中から、きゅるりと必要なところだけ引き出してくれる。

文章読み返すとたまに「出しすぎやろ笑」と思うことも多々あるが、少なくとも通常会話したり仕事の中で表現するよりは、いくぶんマシに出てくるのである。

 

あれ、文章が、すこしだけ、遅れて、聞こえるよ。

 

感情に対して文章がしっかりと追い付いてきてくれるのはいつになるのやら。

できれば言葉も、発言も、しっかりついてきてほしいんだけれども。

「アドバルーン」(マキタユウスケ作)を読んで

特に目的はなく文フリ東京にきた。

なんか面白い出会いがあるかな、と。

わかりきった出会いほどつまらんものはないので、よくこういうことをする。

 

というわけで、予期せぬ良き出会い、がたくさんあったわけだが、その一つが「アドバルーン」だった。

 

正直ある程度見終わったな~というところにふと目についたビラ。
f:id:wahoo910:20181125222522j:image

この表紙がビラとしておいてあって、ふらっといって気に入ったので買ったら残り一冊だった。

 

表紙買いだったけど、買って正解だった。
同人誌になると、結構挿し絵と文章がちぐはぐなものがある(商業誌でもたまにあるが)。
ちぐはぐといっても、世界観のレベルで、だ。
確かにその絵はその作品のことを描いてはいるが、全然イメージしてる世界観とは違うでしょ、感覚と違うでしょ、っていう意味だ。作品で書いてないことを描きすぎて「そこまでいうてへんやろ」となっちゃうこととか、よくある。
ただこの作品は見事に挿し絵と文章でひとつの作品になっている。このふわっとした絵のなかにしっかりと中身が凝縮されている。表紙買いしてよかった。

さて作品についてだが、どれも絶妙なバランスで、現実感と非現実感のあいだをいったりきたりしている。
とくにこの「ちょっと不思議」感がとてつもなくたまらない。最初に収録されている「エスカレーターガール」、エレベーターガールならぬエスカレーターガールの話なのだが、そもそもこのテーマのチョイス自体が絶妙。主人公が体験したことを語る形で、相手がエスカレーターガールを知らないテイで説明をしだすんだけれども、もちろん知らないのでするする入ってしまう。けどもイメージはできる。

そうやって話を聞いていくと、なんだか童話を聞かされているようで、しかして話は童話なんかよりももっと具体的で、現実的で、自分の中の思い出や記憶と合致させてしまいそうになって、だけどもちょっと不思議で。これがもうちょっと話が古かったり抽象的だとたちまち「童話」になっちゃうけれども、あくまでも「ちょっと不思議」でおさまっているのだ。

一番好きなのは「眠り猫」だ。
猫を主軸とした話なのだが、前半とても細かく主人公と猫とのふれあいが描いてあるから、するする読んですっかり自分のなかで具体的なイメージや感情が出てきて、入り込んできたところに、「ちょっと不思議」要素を混ぜてくる。
猫の集合的無意識、あるいは集合的意識。

(詳しく書きたいけれども一応読んでない人メインに見てもらうつもりなので詳しくは読んでね)

そういうワードが出てくる。
ここでこの集合的意識に関して、作中でいらん解説をしすぎるとたちまち「SF」ないしは「ファンタジー」になるが、そこをぐぐっと押さえてあって、ここでもやはり「ちょっと不思議」でおさまっているのだ。
SF好きなせいで「猫の集合的無意識とは? これがもし本当に存在するとしたらどういう状況? 何が考えられる?」なんて考えてしまうが、それはハッキリいって野暮というものだ。


ポストカードも買ってよかった。
やはり挿し絵にする場面も、とてもチョイスがよい。
まりなさんの絵が、世界観に入り込めるようにするっと手助けしてくれる。

 

挿し絵と文章、何があってるかって「抽象度合い」だと思うんですよね。文章がもっともっと具体的に細かに書いてあったら、絵もそれに合わせて具体的でないとなかなか文章から映像をイメージしずらい。ただこの文章は「すこし不思議」感を出すために敢えて書いてない部分がある。その度合いと、挿し絵の度合い。挿し絵で描いてない部分と、文章で書いてない部分。その、なんというか、"度合い"が、ちょうどよいのだ。

その感じがとても心地よくて、いい組み合わせだなぁとしみじみ思った。

 

全体的に「すこし不思議」な話ばかりなので、前半二つ三つ読んだらあとはもうするする入っていって、「もっと書いて~~~」となっていく。トライアングルの話とかは個人的にもうちょっと今後の展開見たかったな~と思ったりした。

 

自分は先日群馬にいったんですよね。東京はその通り道で、ホントは旅程に文フリ東京はさっぱりなかったんですが、羽田空港近いし、どうせ通り道だし、そして時間めっちゃ余ったし、いってみるかぁと。

そのなかでこういう本を、ラスト一冊を手に入れて。それも含めてちょこっと不思議なお話でした。

 

以下で売ってたりするので、良ければぜひぜひ。

https://adballoon-turistas.tumblr.com

 

 

ついでにわしのツイッターもよろしく

 

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魂の強度

魂の強度という言葉があります。

ウソです。

僕が勝手に言ってる言葉です。

 

僕の中で「魂の強度」という言葉をよく使います。端的にいえば、漫画やアニメで「キャラ立ちしてるかどうか」とかですね。個性が強いかどうか?ってところです。

僕は魂の強度がめちゃくちゃあるキャラが好きです。それは個性!とかではなくて、「世の中や作品の世界観と"一切関係なく"、そのキャラ一人で一貫した意思を持っているか」なんですよ。その世界がファンタジーです!荒れた世界です!そんなものは関係なく。

そんなものとは一切合切関係なく、どんな世界にいこうがぶれない。

そういうキャラです。

その世界の倫理観にそぐわないとか利にかなってないとか人間らしくないとかそんなの一切関係ありません。

 

「ぶれない芯があるか」

 

極論いえばこれだけです。これ以外ありません。

なんで僕がこれにこだわるかというと、自分が魂の強度ヨワヨワの人間だからです。

何度も自身を強く持とうと、足場をしっかり固めるんですが、無理じゃないですか??

砂場に棒たててるみたいなかんじで、それをいくら砂をかき集めて立てても個性の荒波にあっさり流されるんですよね。

なんでみんなそんなクソみたいな荒波立てられんですか??????

一貫性もなく、ただただ自分の主張ばかり、そこに見え隠れするエゴ。

あんなんみたあとに自分を主張したいと思わないですよ。僕は人生のなかで、クソみたいな荒波立てて、正しい論理立った砂の塔を問答無用でなぎ倒す光景を何度もみてきたせいで、「あっ、個性の主張ってクソだな」と極端な考えになってしまったのでありました。

ただ、そんな矛盾だらけの芯もクソもない荒波に流されるぼく。

それはどうしようもない。

荒波には荒波。

力には力。

怒号には怒号。

個性主張してくる輩には個性でぶつかるしかなくて、土俵を変えたら死ぬに決まってるんですよね。個性主張マンで理不尽マンには、理屈で対抗するしかないが、そこに理屈に絶対的な自身を持った「魂の強度」がないと逆らえないんですよ。

ぐにゃぐにゃな僕はかたいかたい魂に踏み潰されて死ぬんです。

こればっかりは本当に難しくて、マシュマロに「もっとかたくなれ!!!!!!」って言われても無理じゃないですか??????ってお話なんですよね。

そもそも生まれもった素質なので、これでいきるにはただひたすら潰されても耐えるか、無茶な暴論で拳振り回してなんとかマシュマロを守るぐらいしかやりようがないんですよね。

 

んで、後者になるくらいなら、潰されてのたれ死ぬ方がいいかな、という発想なんですよね。

そのなかで強くなるかなという希望もいちおうは持ってますので。

 

だから魂の強度ががちがちな人間には惹かれるんですよね。

そういう人間になりたい。

 

 

みなさんは魂の強度、しっかりもっといてくださいね。

今世紀最高の映画を絶対に観ろ~映画「ごっこ」感想~

・もくじ

4部構成です。

①まえがき(興味なけりゃ飛ばして)

②社会がつらいか、ならこれを見ろ

③嘘をつかぬ役者の最強の演技を見ろ

川谷絵音の魂の叫びを聞け

④頼む、早く観に来てくれ、死んでしまう

 

 

 

①まえがき

27日(土)のことだった。

僕は東京へ向かうためにいったん北九州へ向かった。

飛行機が福岡空港発のモノが取れず、北九州発羽田行きの飛行機をおさえ、空港へ向かっているときだった。

人の全くいない駅のバス停で、ひたすら空港行きのバスを待っていた。

突如自分のスマホの電話が鳴る。

個人用携帯を鳴らすのは。

家族。保険の勧誘。

 

あとは。

仕事で緊急事態が起きた時。

 

なった瞬間にすでに寒気がしていたが、着信先が上司だったのをみて、すでに吐き気がしていた。

電話に出る。

 

「〇〇です。いま大丈夫かな」

「はい」

 

大丈夫かと言われたら、たぶんよほどでない限り「大丈夫じゃない」とは言えない僕。まあ、その時は確かに大丈夫だったけど。

 

内容はその週に商品を納品したお客様からのクレームだった。

商品の一部に僕の知らない仕様があり、その仕様のために別の設定を商品に行う必要があった。それが抜けていたため、業務が突如止まったとのことだった。

 

飛行機の時間ぎりぎりで向かっていたため、混乱しつつ、受け答え、なんとか返し、LINE、バス降りて、電話、LINE。降りれない。いや、降りなきゃ。しかし飛行機。

 

ミスをしたという、その時点で上司のイライラはなんとなくちらついていたが、連絡がなかなかスムーズに取れない僕を見て余計にイライラしていた。

(デキる上司なので、表立って怒鳴ったり罵倒したりは一切なかった)

 

なんとか空港にはついて、ようやく落ち着いて電話をする。

ともかくなんとかお客様が業務ができるよう、技術者を急遽派遣する方向となった。

 

「とりあえず技術者をなんとか手配するから、今からしばらく連絡取れるようにしておいて。業者に連絡して」

 

はい、大丈夫です、という声が出そうになるのをぐっとこらえる。

何が大丈夫なものか。飛行機だぞ。

連絡がとれるものか。用事だとかやる気だとかそんな問題じゃない。

物理的に無理だ。

 

「あの…実は……今から飛行機に…乗るので…電話や連絡が…」

 

「…………わかった」

 

上司は優しい人だからこそ表にはほぼ出さないが、やはりその裏にいらだちが電話越しでも見えていた。

なぜそれを先に言わないのか。

ならもっと情報共有すべきことを絞るべきだ。

お客様への電話は。

業者への電話は。

 

そういういらだちを抑え、必要最低限伝えるべきことをお互いに伝え、やるべきことをした。

 

その優しさと、裏に見えるいらだちが、僕が社会に適合できていないことの証明書だった。

 

飛行機に乗り、そして降りてからも電話をかけながら移動し。

なんとか自体は、最終的には収束した。

 

 

 

そして僕は、ユーロスペース渋谷に向かい、映画「ごっこ」を観たのだった。

 

 

②社会がつらいか、ならこれを見ろ

本題に入ろう。

なぜ今のような前書きを書いたか?

全く無関係な前書きを書くほど僕も馬鹿ではない。

原作の「ごっこ」も、今回紹介する「ごっこ」も、社会に適合しきれない人々を描いた作品だからである


映画「ごっこ」プレミアムトレーラー

この映画はクソニートひきこもりの「城宮」と「ヨヨ子」の物語である。

ニートの城宮は、ある日自分の家の窓から、向かいの家のベランダで傷だらけの「ヨヨ子」を見つける。

正義感からか、突発的に城宮はヨヨ子をさらってしまう。

 

そうして二人の生活が始まる。

城宮はヨヨ子を自分の子と言い張って生活を始める。

 

という物語。

 

物語で驚くのが、最初はお互い気まずい雰囲気が流れるし、周りからも「本当に親子か?」という目線が向けられるが、だんだんと二人の距離が近づいてきて、だんだん視聴者も最初のことを忘れてきて”親子もの”としてみる様になっていく。

 

しかしもちろん、それで本当の親子になれるわけでもなく、攫った罪が消えるわけでもなく。

 

この物語は、生ぬるいハッピーエンドにはしない。

だが、残酷な終わり方にもしない。

親子とはなにか?家族とはなにか?社会とはなにか?を突き詰めた作品である。

 

決定的にほかの家族モノと違うのは、「お互いがお互いから学ぶ」ことが強いのである。

 

城宮はニートで引きこもり。ほかの人から話しかけられることも慣れていない。すぐキレる。いわゆる社会不適合者である。

だが、ヨヨ子を見ていて、少しずつ自分にもできることを教えるうちに、城宮も色んな学びを得るのだ。

 

最初は「ちゃんとありがとう、と、ごめんなさい、言えるようになろうな」というところから。

赤信号を守ることを教えるうちに、自分も守るようになったり。

3食カップラーメンから、ヨヨ子のために料理を覚えたり。

そうやって、少しずつ、ヨヨ子のためにニートの城宮は頑張っていくのだが。

 

10年近くも引きこもりしていたニートがそんなにすぐに子供を育てられるほど自立できるか?

そんな甘い話ではない。

 

社会不適合証明書は簡単に返却できない。

僕は、それをこの25年間生きてきただけでも強く実感している。

それは定職についた僕であっても、だ。

 

どこか「社会になじめない、つらい」と感じたことが少しでもある人々は、生ぬるい復活劇みたいなものを描かれるとイライラしてしまうと思う。僕がそうなのだが。

だって、そう簡単に「復活」なんてできないからである。

社会に適合する方法がわからなかったり、わかっててもできないまま今の今まで人生やってきているのだから、よほどのことがなければ、この「社会不適合」のレッテルはそうそう剥がれやしないのである。

 

だからこそ、この映画はしっかりとそこは描かれている。

そのつらさと適合できなさは残ったままだ。

 

だがそれでも城宮を動かすものは、なんなのかと聞かれると、ヨヨ子なのである。

 

そこにしかとした説得力がある。

生半可な気持ちで社会不適合者を描いていない。

本気でそういう社会の闇を描こうという気概がそこにあり、ならどうやれば立ち直れるのか、立ち直るきっかけはあるのかという部分が描かれている。

 

③嘘をつかぬ役者の最強の演技を見ろ

上記に書いたように、作品において、本気でこういう社会から外れたものを書こうという気概がなければ、「こういうの書いておけば、引きこもりは共感してくれるんでしょ?」という適合者側からの上から目線満載の雰囲気がにおってきてしまうのである。

 

それをさせないのが、役者たちの演技力である。

これは社会不適合者として保証させていただくが、絶対にこの作品に「不適合者をナメた態度」は存在しない。それだけ役者の気合が入っていた。

本作に出ている役者の演技力は目を見張るものばかりで、ここでは主役の二人に関して取り上げる。

 

千原ジュニア

引きこもりの城宮役である。

この選出は正解だった。

これがイケメン俳優なら、先に書いた「上から目線」が出てきてしまう。

ただ、「人のよさ」が出ていないと、この作品は成り立たない。

引きこもりの根っこに眠る人のよさが、ヨヨ子のために動く力となっているわけだから。そこがなけりゃ、「ただの引きこもりがここまでできんよ」となってしまう。

その塩梅がちょうどいいのが千原ジュニアさんであった。

そしてお笑い芸人として知られているが、昔からマイナー映画に何本も出演しており、映画界では役者の一面を知られた存在である。

千原ジュニアの演技は、たびたび出てくる狂気—引きこもりがもつ社会不適合性—を出しつつも、本質的な根っこは優しさがどこかにある演技で、だから幼馴染のマチ子もほほえましく眺めるし、皆も親子と思ってみている。見ていられる。

 

だからこの作品のほのぼのさが成り立つ。

 

そして、本気度も成り立つ。

 

いきなりブチ切れるような演技もそうだし、子供に対して優しく接する演技もそうだし。

その両方が成り立つのはとても難しいのだ。どちらかにウソが混じってしまいそうになるが、千原ジュニアはそうではなかった。

 

狂うような魂の叫びが、僕の社会に合わぬ心にぐさりと刺さった。

 

彼の葛藤、決意、それらがすべて伝わる素晴らしい演技だった。

 

バットで殴りこむシーンと、ベンチのシーンがとてもよかった。

これから見る人はこの上記二点を注目してほしい。

 

(2019/02/23 23:33 追記)

千原ジュニア、月9初レギュラーに恐縮 関西弁を完全封印で「不安しかない」(オリコン) - Yahoo!ニュース

なんと!千原ジュニアさんの映画ごっこでの演技に魅了され、月9ドラマに抜擢!!

現在放映中の「トレース」に出演中!!!

ごっこがきっかけになった!という話も記事中に書かれておりますのでぜひ。

 

平尾菜々花

この子が最強の子役であった。

近年ではNHKドラマ「悦ちゃん」などに出演し、その作品をみて「この子が出るなら観に来る」といって「ごっこ」を観に来ていた人もいた。

役の設定は5歳だが、この役者は9歳である。

 

しかし9歳とも思えぬ迫真の演技であった。

 

まず目力がすごい。

この作品はヨヨ子と城宮がお互いがお互いからいろいろ学んでいくお話なので、いくら城宮がニートとは言え、ヨヨ子ちゃんの精神年齢はある程度高くないと成り立たない。

ただ城宮にくっついていくだけの子供、という演技じゃ成り立たんわけである。

それを成り立たせているのがこの平尾菜々花の演技である。

城宮が引っ張っていっているようで、いつのまにかヨヨ子のペースにもっていく。

劇中でも、終始千原ジュニアは振り回されたという。

 

natalie.mu

 

(以下、上記記事引用)

ジュニアは台本を読んで「この女の子によって変わるんやろな」とヨヨ子役に映画が左右されると思っていたことを述べたうえで、平尾を「ただの天才」と表現。ビンタするシーンなどを回想しながら「思いっきり行けるかな?ってところも行けるんですよ。よう考えたら行けたんじゃなくて、行かさせられた。完全に手綱を取られてた」と絶賛する。

 

ビンタをするシーンがあったのだが、基本的にビンタは本気でやれという人と、言わない人がいる。ましてや、子供相手に本気でビンタができるか?というと、ためらうのが常。

映画関係者が聞いた話によると「本番に入った瞬間、”あ、これいくんやな”と思った」と語っていたそう。

そういう、周りの役者すら巻き込む空気感を持った女優なのだ。

 

news.nicovideo.jp

 

こちらでも「平尾菜々花っていう女優のためにも、この作品は世に出たほうがいいな」とまで言っているほどだ。

 

一番すごいのは、泣きの演技だ。

子供ながらに何度か泣くシーンがあるが、そこにも是非目をみはっていてほしい。

 

 

 

 

川谷絵音の魂の叫びを聞け

 

www.youtube.com

 

これはすべてこの映画のために書き下ろした曲である。

映画を見た川谷絵音が「是非やらせてください」と頼み、一度は制作者側からOKをもらった曲を破棄し、3つも自らリテイクをかけてようやく生まれた曲だ。

 

あとは何も言うまい。

そこには疑う余地のない魂の叫びが込められている。

聞け。

そして映画を見てもう一度聞け。

 

全てがここに詰まっている。

 

④頼む、早く観に来てくれ、死んでしまう

営業でまざまざと社会の不適合さを改めて突き付けられている自分が、究極にまでひねくれて、そんな状態で心をえぐってきた映画なのだ、これは。

ここまでの文章にどこか共感を得た人は本当に観に来てほしい

 

この作品は正直な話、宣伝費が足りない。

こうやって地道に、個人が宣伝するしかない。

 

だが俳優・制作陣・アーティストすべてが魂を込め叫んだ渾身の一撃を、ここで終わらせてしまっていいのか。

 

僕はこの原作が好きで東京に行って、関係者に原作の良さを売り込んできた。

だが映画をみてからは、この映画をもっともっと売り込みたくなった。

 

知っているか、映画は初週1週間で決まる。

もうすでに2週目だ。

初週が悪ければ2週目をやらないところもあるくらいで、基本映画はよほど大きな広告を打っていない限り2週程度しかやらない。

 

来週やるかわからない。今週金曜日までで終わる可能性がある。

頼む、早く観に来てくれ

gokko-movie.jp

リンク先に上映映画館一覧がある。

東京以外でも福岡・広島などでもやっている。

頼む。映画が死んでしまう。

 

つまはじきものたちの魂の叫びが消えてしまう。

 

どうかどうか、頼むから、観に来てくれ。

 

「あとで見よう」が、きかないのだ、映画は。

 

この一週間が最後の砦なのだ。

 

頼む。共感した人は、観に来てほしい

ちょっとでもいいと思った人は観に来てほしい。

 

頼む。

時間が合わないのであれば「時間を増やして」と投書してほしい。

遠くていけないのであれば、近くの映画館で「上映して」と投書してほしい。

 

それだけ、これは消えるにもったいない映画なのだ。

 

頼む。頼む。頼む。

 

なにかを、この作品のために、してあげてください。

 

よろしくお願いします。

 

(2019/02/23 23:41 追記)

もーーーーーーーもう終わっとるやん!!!!!!!

映画!!!!!!!!!!!!!

以下リンクで応援して!!!!!!!!!!!!

復活させっぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

それかツイッターでつぶやいて!!!!!!!!!

「#ごっこ」のタグで!!!!!!!!!!

一応まだ愛媛で上映やってるから可能性あるんだから!!!!!!!!

www.dreampass.jp

 

 

 

 

 

 

日記:東京、飛行機、ふわふわ

・飛行機

飛行機に乗った。そのときの不思議なふわふわとういたかんじがまだ残っている。

地形を見るのがとても面白いと思う。飛行機にのるたびに。

今日は澄みわたる晴れ空だったおかげで、福岡から国東半島、四国、瀬戸内海としっかりみえた。

国東半島はみていておもしろかった。真ん中からなにかが吹き出して、それがあふれ流れ出たものがそのまま固まったようだった。

そうしてできた地形の、山の隙間に詰め込むように家や田畑が広がっていた。

とても縦長の隙間に詰め込むのがなんだかおもしろくて。

しばらく眺めていた。

離島はさらに面白かった。

島のわずかな平地、外側のへりに沿うようにちまちまと家がたっていて、ケーキのふちに飾りつけをしたようになっていて。

それが自然にそれを選んだのだな、という感覚があった。どれだけ人間が開発するちからがあっても、地形に沿って、地形にしたがって生きているのだなと。

ただ、福岡の平野は、福岡市から大野城あたりまで、なにかでなぎはらったのかのようにたいらですこし怖かった。これだけ山だらけの地形で、一部だけあまりに平らだったから。

もちろんそんなことはないだろう。平野は自然にできたもので、そこに人々が集まっているだけで、そこを人間がなぎはらったなんて、そんなゴジラじゃあるまいし。

ただなんとなーく、あっ、ゴジラが歩いたのかなと、そう感じた。

 

・チケット

あっ。そういえば栃木に行くんだった。チケットとらなきゃ。

そう考えて、テキトーに今日の朝イチの飛行機で行き、次の日の遅めの飛行機で帰るチケットを買った。

ネットでポンポン買っても、ちゃんと席がとれるもんだなとなぜか感心した。

インターネットの予約で、間違ったり、予約してたのにとれてなかったり、そんなことはいままでなかった。

だけどとてもフワフワしてるので。

価値も存在もなにもかも。

だもんで飛行機とかいう、クソデカイしセキュリティ厳重な、重圧感放ってる物体の乗車券がこんなあっさりでいいのかなぁ、という謎の不安があって。

でも現実なのだ。

ちゃあんと、色んなセキュリティをとおって、もし俺が、「おいおい、こんなので予約がとれるとかうそっぱちだろ、キャンセルしちまえ」と開き直ったにしても、必ず請求が行くように、出来ているのだ。

 

・現実

現実感がない。

高校時代の、唯一の知り合いもそんなかんじだった。

唯一の、というと誇張だろうが、他の知り合いからは避けられたりなんたり、あとはゲームをするだけの仲だったり、そんな感じで、Twitter上にはまだいるけれども、実際に会う知り合いはほとんどいない。

だからだろうか。

そもそも高校自体が、現実だったのか今でも不思議だ。

自分は高校(正確には高専だが)を辞め、そのため同窓会名簿にも載らないし、個人的に呼んでくれるほど好かれていたとも思えない。

だもんで、高専に関する何かに触れることがほとんどなく、思い出すきっかけもなく。

だから人生でそこだけ、途切れている別世界のような感覚があるのだ。

世界線を飛んだような感覚。地続きだった小学校、中学校から一気に高専に飛び、そうしてまた、一気に大学にとんだ。

だからいくらわかっていても、飛行機で飛んでいるときみたく、今見ている景色がちゃあんとした現実で、今見ている地形が自分のすんでいるところだと言われても、なんとなく別世界なのだ。

 

そんな、高校自体がフワフワしているところに、さらにフワフワとした存在がヤツだった。

 

攻殻機動隊を教えてくれたヤツは、俺と仲良くなって、ケンカして、そのタイミングですぅッと消えた。

本当に消えたのだ。

なんの予兆もなしにじわっと学校から消え、SNSのアカウントすら消え、ヤツを証明するものがほとんど消え、すぐに半年すぎた。

とてもあっさりしているが、僕もヤツの存在がフワフワしていたからか、特に気にならなかった。

あっ、消えたんだなぁ。

そんなかんじだった。

 

だがヤツはもう一度、半年後にこれまた予告なしに突如学校に復帰した。

 

そうしておれはヤツとまた再会したわけだが、ヤツはどこにも居座らず、どこかしこに色んなコミューンがあって、流浪の存在だった。

 

だから結局、またしても学校を辞め、そうして二度と現れなかった。

 

ほどなくして成績不振につき高専を辞め、大学に言った俺はそんなヤツのことも、どーも現実感がない謎の思い出として浮いたままになっていた。

 

そんなヤツもちゃんとやっぱり生きていたみたいで、東京で生きていることがようやくわかり。

ちゃんとした現実として顔を合わせる。

 

あー、現実なのかー、と、いまだ不思議な感覚だ。

まだフワフワと浮いている。

 

東京という初めてくる街のことも、羽田空港も、飛行機も、ふわふわとしてる。

 

それがしっかりと形になっていくのだろう、今日これから。

自分の体験を通じて。

 

まあ何はともあれ、東京、栃木、楽しんで参りますよ。

それはまぎれもなく、ちゃんとした現実です。