ばしこ氏のブログ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

文章書くのたのしい

今大事な2分間を逃した。

 

それはめちゃくちゃ書きたい欲と、アイディアがあふれていたタイミングだった。

そのタイミングでなぜかPCが突如謎の不調を起こし、一切書くのを許さなかった。

結果、クソつまらん文章が出ることになったら、PCをぶち壊すことにしよう。

 

ともかく、わけもなく感情があふれてきて書きだしたりなんたりアウトプットしたいというタイミングがある。

ただ、わけもない感情とは言いつつも、一応わけがあるわけなのだ。

その”わけ”とやらを知るためには、ある程度形にしてやらねばならんのだ。

 

その時にそれをどう形にするのか、というのが文章であり、小説なのだ。

 

小説のよさは、型があるのだ。

ここでいう型は、たぶん多くの読者が想像する型ではない。

クッキーの型とか、氷の型とか、そういう型なのだ。

一緒やんけ、と思うだろうがそうではない。

 

非常に抽象的でふわふわどろどろした感情の液体をいかに固めていくかというのは、クッキーの型のような、外枠がうまったものに流し込んでいくしかないのだ。

そうすることでいったんは形にできて、それをじっくり眺めることで、自分のことがわかるようになってくる。わけがわかってくるのだ、自分の感情の。

 

今もそうで、よくわからない何か書きたいよーという感情を、ブログで「小説書くってなんだろねってこと書こうね」って型に流し込んでいっているだけで、それ以外全くの—プラン、何が書きたいも何もないわけである。

 

そんなら自由に書けばいいやんけ、と思って自由に書いてみたりするのだが、そんなことをしたところで全く文章にならないし、訳の分からないものがそのまま訳のわからないものとして出てきて、まったく訳の分からんままですべてが終了してしまうのだ。

それだったら脳内で自分の感情を永久に凍らせておいても全く問題ないわけで、しかしそうしておいたところで何万年もあとに永久凍土から感情が発掘されました、なんてことはなく、ほかの感情とごちゃごちゃになってどこかへ消えてしまう。

 

だもんで、今ここでも、ともかくかくかく…ということを意識している。

そこに面白さだとかはもちろんちょっとは意識しているのだけれども、読みやすさとか起承転結は一切意識していない。

しいていうなら、型としての起と結、だろうか。意識しているのは。

 

最初とケツだけ決まったもんに、とりあえず感情の渦をぶちこんでみる。

それが僕の文章の書き方であります。

みんながどう書いているのかな~というのはちょっと気になる。

どう書いているか、みんな教えてね。

言葉は水物、すぐに死ぬ

なんかどっかで書いたワードです。

いやほんとに水物だし死ぬんですよね。

かきたかった思いとかやりたかった思いとか、感情その他もろもろ、ほっといたらすぐに消えます。

人間気持ちなんてものはすぐに移り変わっていくので。

 

だから昨日考えたSF小説のネタも、この前考えた独楽を題材にした小説のネタも、もはや露と消え失せてしまいそうです。

その場でアイディアだけはあって、それを生かそう形にしようという力が働いてる間にある程度形にしないと、アイディアだけ残って、それを形にする力はどっかに消えてしまうんですよね。

 

その時々の感情とか考えは残せない。

よってこうやって文章として残すわけであります。

 

今書いているのは僕がよく言う「ノンストップ文章」である。

推敲なし考えるのもなし、ともかく「あーかきたい」と思った時に、前を読み返すことも一切なくともかく書き散らすことである。

それをすると、自分が頭の中で「あー」と思っていたよくわからない感情が全部どばっと文字で出てくるので、いったん書き出していると後で読み返すときにめちゃくちゃおもしろいし、めちゃくちゃ発見があるんですよね。

しかしこれを書いていないと、あとで思い出すことは断片的にしかできない。

これを丁寧な文章に直す過程でいちいちそぎ落とされていく部分がとても大事なのに、それがない。

だからこういう文章をちまちまと書いては、読み返すのが趣味である。

 

そういう意味で、どうもPCは苦手で、手書きを書きがちである。

手書きだと本当に一切の書き間違いすらも許されない、許されないというか、そのまま残る。だもんで、それがまた奇妙な面白さを生んだりするわけですが、PCだとそうはいかない。

特に嫌なのが、”全部字が均等にきれいだ”というお話なんですよね。

手書きだと字を崩せます。だからぶっちゃけ言い訳ができます。

ここは考えてるからきれいにかけるしきれいな文章浮かんでるよ~とかしているところによくわかってないけど思いだけはある、みたいな文章書かざるを得ない状況になったときわざとめちゃくちゃ汚く書いて「ああああああああああしらんしらんしらーん!汚いからしらーん!!」とやります。

そうして逃げます。

それを別にそのまま会議資料として職場に提出するわけでもあるまいし、そんなんどうだっていいんです。

とりあえず掃き出して書いてしまうのが目的なのでそれでいいんです。

それすらできなくなって、今の感情がただの「よかった」「なんかよかった」だけにとどまるのがとても嫌なんですよ。

 

というわけで今こうやって書いている次第であります。

 

で、面白いことに、こうやって、書くと自分の今一番いいたいことが前に出てくるんですよね。

じゃ、今日自分は何やってて、なんでこういうこと書きたくなったか?

というと、理屈はないんですよ。

今日は熊本まで行ってきて、川下りしてきて、それはそれでなんか刺激にはなったんですが。

そこをいちいち「ブログのネタにしよう…」とかいってストーリーとしてつなぎ合わせようとして考えている間にいろんな大事なものがぽろぽろ落ちて行って、結局言いたかったことなんだっけ?となってしまう。

 

だから自分は本当にこういう勢いのある文章というのを大事にしている。

反面、勢いがつかないと何も書けないわけですが。。。。

 

というわけで勢いがつくうちに書きました。

おかげで言葉は腐らずにちゃんとネットの永久凍土に凍らされて保存されました。

おめでとうございます。

 頑張って小説も書きます。

みんなもどんどん考えはさっさと吐き出そうね。

好きな作家が、死ぬということ~映画「ごっこ」について~

・初めに

僕は今日、小路啓之という漫画家について話を書く。

僕が応援していたが、事故で突如亡くなった作家さんだ。

そのすべてをここに記す。

小路啓之ファンにはもちろん読んでほしいが、知らない人でも、好きな作家・漫画家・アーティストがいる人、特にまだマイナーな作家を応援している人は必ず読んでほしい。

 

こういうことは、頭でいくら理解していようが、当事者にならにゃわからない。

自分が作家を応援して、その作家がだんだんうまくなって、有名になって、それで次をワクワクしているところに、突如それが一切合切消え失せる恐怖。悲しみ。

そういう当事者の、悲痛な叫びを聞いてほしい。

 

小路啓之が死んだ

小路啓之

僕の好きな漫画家だった。

おととしぐらいか。

それは突如訪れた。

ぼんやりとネット記事を眺めていたら、こんな記事が流れてきた。

www.huffingtonpost.jp

実際に見た記事はこれじゃなかったので、タイトルには「リカベント自転車による事故で漫画家が死亡」とか書いてあって、リカベント自転車、という特殊性をメインに記事が書かれていた。リカベント自転車は仰向けに寝るような体勢でこぐ自転車なので、横の力に弱い?とかなんとかで、それでリカベント自転車で乗っていたが突如転倒し亡くなられた、ということが書かれていて、「ほーん」というくらいに読んでいた。

するとそこに。

 

「漫画家 小路啓之

 

と書いてあった。

 

あっ。

 

そうかあ。

 

それが最初にでた感想だった。

 当時こんなツイートを自分でもしていたが、こんなことは実際にはみじんも思っていなかったのは鮮明に覚えている。

ショック!頭真っ白!

とかそんな既存の形容できる状態ではない。

 

すとん。

 

そういう音。

何かがするりと抜け落ちて。

ただそれがあまりにもきれいで。

違和感をはっきりと感じることができなかった。

なにかそこから抜け落ちたはずだけど、何が落ちたかわからない。

そういう感情だった。

 

小路啓之氏との出会い

出会いといっても知り合ったわけでも何でもない。

ただ、僕がその作品と出会った時の話。

それは全くの偶然だった。

僕はジャンプ改を買った。調べたら2011年くらいの話だったっぽい。

そんときにシャーマンキングの読み切りが乗るとの話で、当時表紙もマンキンになっていたので、聞いたこともない雑誌をさくっと買った。

そしてマンキンを読み、それ以外の漫画にも目を通すが、どこがおもしろいかよーわからんのばっかりで、とても目につかない。

もちろん、何作かは読めるものはあったが、そのくらい。

 

私の中で、媒体にはそれぞれの向き不向きがあると思っていて。

漫画は特に、感覚的に読みやすく(内容のむずかしさとかではなく)、頭に入りやすいことが大事だと思っている。

文字をぐだぐだ書くのはもってのほかで、そのコマで言いたいこと伝えたいことを一枚の絵に抽象的におさめ、文字をさして読まなくても、その雰囲気が、流れが、じわりと伝わるような漫画がよい漫画だと思っている。

 

そのなかで、小路啓之「犯罪王ポポネポ」がそうだった。

そして漫画のわりにリズムのよい語感を多くつかい、文章だけでも良いコマにもその内容が伝わる一コマを書き。

言葉は入りやすい。

絵も入りやすい。

それでいて、読み込むととても漫画とは思えないほど文学的で。

 

高尚さはないのに、奥が深くて。

読みやすくて。

それがとても好きだった。

次号からは、シャーマンキングとポポネポしか読まなかった。

 

そうして、そこからはまった僕は、小路啓之先生の漫画を。ほかの作品も読み始めたのだ。

 

・漫画としての評価。先生との交流

そのあとに、たしかまず「かげふみさん」を読んだのだ。

雰囲気はおんなじだが、まだまだ下手だった。

どう下手かというと、語感はいいが文章が下手で、話の内容が伝わりずらいし、主語が抜けたり述語が抜けたり、そして漫画として描いてほしい顔、描写も抜けたり。

イマイチもう少し、という感が抜けなかった。

 

しかし、この後に読んだ「来世であいましょう」と「ごっこ」は、傑作中の傑作だったのだ。

小路啓之特有の、生々しいリアルを書きながらどこか抽象的な絵で茶化しつつ、大事な部分は現実をまざまざと見せつけさせるエグさ。絵のほっぷさと非現実感のせいでするりと心の奥に入ってはくるが、そのあとに心の内からごりごりとえぐってくる。

そういう、刺さるものがあった。

ズバーン!という衝撃だとかそういうもんでなく、一回読んでからじわりじわりとしみてきて、永遠に心の隅に残滓が残ったままになるような、そういうしつこさがあった。

 

なのにいっこうに大きく取り上げられない。なかなか注目されない。

ネットを探していても、取り上げているブログも少ない。

この漫画がすごい!にもでてこない。

それがとても悔しくて、なんとか広めてやる~~うお~~~という勢いで私は何度かツイッターに人に勧め、大学でも人にすすめ、

ブログも書いた。

(先生もRTしてくれた)

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 (先生、わりとリプライもくれた)

 

 

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そんなこんなで、とてもうれしい日々だった。

この漫画家を応援したい。

ごっこ、来世で会いましょうの後に、メタラブという漫画を連載していて。

それも面白かった。

恋愛もので、恋愛とはなにか?という部分の核心にせまるものだった。

特に大学生に読んでほしい恋愛漫画

だがこれも、どーも注目されない。

だが今後絶対に注目される日がくるはず。

漫画家として、どんどん伸びてくる日がくるはず。

もっと知られていく日がくるはず。

 

だからそう思って、布教活動を続けてきた。

 

そうして新しい連載「雑草家族」と「10歳かあさん」が出てきて、この人の得意なジャンルが、家族や恋愛ものであることがだんだんと確立してきている感、そしてそれが売れると出版社もわかってきている感が出てきていて、この作品がどう注目されるかと待ちわびているところだった。

 

・作家の死亡、そのあと、僕がしたこと

あとは言うことはない。

冒頭かいたように、突如、作者の死が訪れたのであった。

 僕はそう言い、何かを残そうと考えた。

先生の漫画をまだまだ広げていきたい。だからこのタイミング、リカベント自転車という記事で、小路啓之が少しでも話題になっている今、漫画のことを伝えていくべきである。

 

そしてこの後、そう考えた僕がどういう行動に出ていくか、お分かりだろう。

 

 

 

 

何もしなかったのである。

 

 

 

こともあろうに、僕は何もしなかったのである。

もちろん、作家先生がしんで、もう残すものがなくなり、それを伝える人々も我々しかいないことは重々承知していた。

だが、何かがすとんと落ちたような気持ちになった僕は、ただ悲しみに明け暮れて、自分の中からそのまま小路啓之先生は消えて、そのままでしかなかったのである。

 

それはエネルギーになるわけでもなんでもなかった。

 

だって、僕は先生と交流が取れるのがうれしかった。

まだまだ次の作品が見れるのがうれしかった。

私は、今の作品をリフレインしたかったのもある。

しかし、次が見たかったのだ。

あの人はもっともっと、いい作品が、もっと注目される作品が、書ける先生だった。

だから、次が、新作が、見たかったのである。

 

そんな状況で、昔をリフレインして一体何になるのか。

それで小路啓之先生の新作が天から降ってくるのか??

焼き直しが出てくるのか?

先生と一生涯一緒に過ごして、作風も作画も完ぺきにまねできる漫画家が現れて続きを書いてくれるのか???

もちろんそんなことはない。

 

この人が書く次の作品はもう見れない。

僕が「もっと面白いものが書けるはず!」という期待以上の作品が出てきて。

それがワイワイと色んなところで取りあげられて。

その流れで昔の作品も取り上げられて。

この作家さんを応援する人がもっと増えて。

そうして次の新たな、もっともっと面白い作品を先生が書いて。

 

そんな未来は露と消え失せた。

 

そうして、僕はエネルギーを抜かれた。

楽しみを抜かれた。

 

先生の死と同時に、新たな漫画作家を追うことも特にしなくなり、

ただただ、思い出したように、持っている漫画で続きを買っていない分を買うような、そんなぐらいの漫画の読み方になっていった。

 

書いていたブログもやめた。

 

ブログはサイトが古くなり、更新しなくなったせいでリンクも切れた。

先生からRTもらえた記事も、ネットの海に消え失せた。

 

 

・映画「ごっこ」の公開決定。

あれからもう二年近く経った。

もちろん先生のことは忘れちゃいないが、評論書くぞー追悼本書くぞーなんて気は失せたまま、その日を迎えた。

 

 

小路啓之先生の、「ごっこ」の、突然の映画化。 

 

「は?」

という感想が先にきて。

そのあとに本物の興奮がじわじわと湧き上がってきた。

まだ先生の作品の、続きが、この人の作品を発展させたいと思っている人がいたのか!

そう思ってうれしかったと同時に、何をやっているんだという気持ちにかられた。

 

俺は何をしていた?

 

この映画を作られている間に俺は何をしていた?

もちろん何もしちゃいない。

宣伝もなにもしていない。

評論本も作っていない。

あれだけ好きだった先生を語る機会を一切なくし、何もしていなかった。

 

俺は何をしている?

 

そう思って、今日この日の、ブログを書いた。

 

あの漫画をしっかり読んで、この漫画に込められたエッセンスに共感を覚え、映画にしようとしてくださった皆さんには感謝しかないと同時に、どこに惹かれたのか24時間飲み明かしたい気分でありますし、なんならもはやこのままの勢いで来世であいましょうも映画化してくれませんかね?無理ですかね?まあ試しに読んでみてくださいよ先生。

映画のポスターの背景に原作絵持ってくるとか粋なことしやがってバカヤロー。

明らかに漫画を「ただの原案」でなくて、漫画自体に思い入れある作り方じゃないですか。

映画を作る発端は誰ですか?

誰が最初に発案しました?

それに乗ったのは誰ですか?

いやマジで会いたい。

そのぐらいの興奮がずっとあった。

 

だから少しは、制作陣にこのブログが届いて、小路啓之作品こんなに好きなやつおるんやぞ、もっと広めろ!!!!

ということが知れれば、ちょっとは貢献できるんじゃねえかな、という思いもあって書かせていただいた。

それで少しでも、小路啓之ファンがまた増えれば。

また作品を、発展させてくれる人が増えれば。

 

それだけで。とてもとてもうれしい。

 

・好きな作家がいる人へ

ここに書かれている話は、好きな作家(同人レベルから商業誌連載レベルまで)が生きている人には全員読んでおいてほしかった。

生きているうちにしっかり布教してほしいし、何よりも、”死んだ後(引退した後)からが本番である”ということである。

死んだ後にその作家を広めるのは誰か?

その作家を好きだった人、つまりお前しかいない。

その作家がまだ発展途上だった?ならなおさらだ。

創作者に広げまくって刺激をあたえつづけろ。誰かがそれのオマージュを書くかもしれん。同人を書くかもしれん。それにインスパイアされた全く別作品を書くかもしれん。

そのはてに映画化してくれるかもしれん。

作家の生命は死んでも作品は残る。

そしてそれが未完のものであっても、エッセンスは残る。

不完全でもそれを好きと思ったお前が、感じ取ったものは何か。

そこにその漫画家の良さが詰まったエッセンスがある。

それを広めるんだ。

それを広めることで、作家も、やりきれねえ思いをしているお前らも救われる。

広めろ。

布教しろ。

作家はただのしかばねとなってしまった以上、声はあげられねえ。

上げられるのは出版社の宣伝と、書店の声だけだ。

お前が声をあげるしかない。

それをどうか、忘れないでほしい。

 

 

小路啓之氏「ごっこ」について

ここまで読んでいったんだから。ついでだ、「ごっこ」を宣伝するから見て行けよ。

ごっこ

 

 この表紙にいる変な目した子が「ヨヨ子」である。

主人公は30ちかくのおっさん。

そのおっさんがこのヨヨ子を誘拐し、”コト”に及ぼうとする。

しかし、ヨヨ子ちゃんは以前の親にぼろぼろに虐待されていたからか精神が不安定になっており、おっさんをお父さんと勘違いする。

それから、おっさんはヨヨ子のおっさんとしてふるまうことになった。

 

ストーリーを聞くと犯罪まみれでクソ気持ち悪い絵が浮かぶのだが、そこをうまく調整するのが小路啓之マジックである。

それ以降続くのはほのぼの子育て漫画で、この目つき悪いヨヨ子が生意気でありつつもだんだんとかわいいな~と思えてくる。それが重要なポイントで、これが萌え萌えのかわいらしすぎるキャラクターであったら、おっさんがコトに及ぼうとするほうにばかり目がいくだろう。

しかしこの絶妙なデザインと、変なことを言い出す子供の、妙な感覚をうまく描いているせいで、僕らもヨヨ子ちゃんを「見守る側」にすっかりと回ってしまい、おっさんも育児に専念しているからすっかり犯罪者と誘拐された側であることを忘れてしまう。

そんなこんなで話が続いていくわけだが、もちろん攫われたことが消えるわけではなく、ヨヨ子の本当の親が出てきたり、自分が犯罪者であることが最終的にばれてしまい……

 

と。

まあこんな感じである。

この作品の重要なポイントは、あくまでもメインは”育児漫画”かつ”恋愛漫画”であることである。

誘拐犯の悲痛な悩み……誘拐された子のつらい人生……

そういう社会派な話では全くない。いや、社会を描いているのに間違いではないが。

誘拐したというのはあくまでもこういった無関係だった大人と子供が家族ごっこをするという状況を作り出すためのキーでしかなく、そういった観点から「家族とは何か」「子供と親とは何か」という部分を描いていく話である。

「あらすじ聞いて身構えてたら案外読み始めたらほのぼのと読めてなーんだと思っていたらやっぱり身構えていたの間違えてなかったやんけ」

という感じで、油断してついつい心の門を開門して読んでしまうわけですが、そうすることで心にめちゃくちゃ刺さってくるのでぜひ心の門全開にしていってくださいね。

 

・映画「ごっこ」に求めること

もう出来上がっているのに、求めるも何もないですが。

もちろん映画化するうえで、ある程度映画を見る客層に作品を寄せていく必要があるのはわかっています。

しかしこの作品で重要なのは、「ほのぼの子育てシーン」です。

一回シリアスやどろどろとした重さを忘れさせ、そこでぐぐぐっと鑑賞者の心を油断させるのがとても大事だと思います。

それがあってからの、「いや、重要な話忘れたらあかんでしょ」とドカンとくるのがこの作品の醍醐味だと思っています。

それはどれだけシリアスさを残しつつ、ほのぼのさを全開に出していけるかというめちゃくちゃ難しい話だと思うんですよ。

ええ難しいと思います。

けどこれを映画化する以上、そうしてほしいなあ、というのが、一人のファンとしての、思いであります。

 

 

 

以上。

長くなりましたがこれにて。

みなさん、これをきっかけにぜひぜひ小路啓之作品、読んでくださいませ。

そして、死んでしまって、あるいは活動をやめて、そのまま忘れ去ってしまった作家さんが今までにいませんでしたか?そういう作家さんのこと、また思い出してみて、この記事よんでみてください。

 

おしまい。

 

(追記 2019/1/29)

映画ごっこ、めっちゃよかったですがもうやってないのよ……………

http://gokko-movie.jp

↑まずPVみよ!!!!!!!!!

よかったらね、ドリパスのね、投票して………

⬇️

https://www.dreampass.jp/m365115

純文学初心者のはなし~滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」~

どうも。純文学初心者です。

といっても純文学といっていいのか、まあとりあえず芥川賞作品、ないし候補作品読んでるよって感じで。あとはあんましよんでない。

とくにさいきんのばかりで、古いのはしりません。滝口悠生さんのジミヘンドリクスエクスペリエンスを読み返して、なんか思うとこあったので、自分の中の純文学イメージ、芥川賞のイメージをざっくり書きます。

 

さて。突然ですが「人間としてのバランス」みたいなものがあると思ってて。人間にはね。

なにかこうバランスがうまくとれている人が社会的によいとされていて、バランスがとれていない人が社会的にビミョーといわれる。

これはべつに「無難である」という意味の、バランスがとれている、ではなくて。

人としての一貫性があるかどうかというお話なんですよね。

一つに特化していることはそれはそれでよいバランスであると思うのですよね。

 

僕の場合、自分はバランスがとれてないなぁ、とはたと思うことがよくあるのであります。

 

とくに無難なわけでもなく、かといってなにかに特化しているわけでもなく、どこにもつかずどっちつかずフラフラと……

そういう意味で、人間としてのバランスが不安定な自分がいると思っております。

 

そういうときに純文学を読むと少し安心するんですよね。

物語的な人間、というものがいなくて、とても具体的な人間がそこにいて、バランスのとれていない人間である自分が共感できるなにかがそこにあって、けれどもそれはちゃんと形にできる何かではなくて。

 

純文学の、「形にはできないんですけど、文字ではなんとか形にできた、これって何て呼びましょうかねぇ」みたいな、そういうふんいきが自分にしっくりきて、自分も「ははは、そうですねぇ、僕も形にできないんですが、何て呼びますかねぇ」って感じなんですよね。

 

結局普通の物語というものは、何かをかっちり形にしてあって。そこに完成形がある。

それと同様に、人は自身を物語化して語るんですよ。滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」とかでちらと触れられたりしてる気がしますが。

正直ジミヘンで作者が言いたいこととは違うとは思うんですが、ジミヘンには「物語化する前の、人間そのまま」を書こうという試みがあると思うんですよ。ただそれがもうちょっと足りなくて、これでは芥川賞に届かなかった、というかんじなのかなぁ、とか。

他の例で言うと本谷有希子「生きてるだけで、愛」とかは逆に人間そのまま産地直送ってかんじで、あまりにもドストレートにぶっ混みすぎて胃もたれ、って感じかなぁと思っていて。

 

人間そのまま産地直送、あるいは書くことへの挑戦、ってのが、芥川賞とか純文学のざっくりとした感じかなぁと。

 

たぶん僕みたいなタイプは、「いまだ定義されていない形容しがたいなにか」であって、たぶんそのうちなんか定義はされるとおもうんですよ。病気だとか傾向だとかなんとかで。

けどその状態って自分が何者かさっぱりわからなくて、怖さがあるんですよね。

そういったところに、自分と似たような「形容しがたいなにか」があると、「あ、自分は定義されてはないってだけの、何かではあるんだな」という安心がある。

気がする。

 

まあ今日はこんなもんで。

物語化する人間の話

 

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 

 

ついこの間、人にすすめられてこの本を読んだ。そのなかでちょいとラカンフロイトに触れていて、非常に興味深かった。

(と、こう書くといかにも「ラカンフロイト、いいよね……僕結構読んでいるんだよね」感が出るが、残念ながら一切読んでいない。興味はあるんだけど)

 

そのあたりで、「記憶は"過去の真実"ではない」という章がある。

話の趣旨としては、「人は自分を語るときに物語化して話すので、「過去の事実」を見るために語るわけではなく、「自分が何者であるか」という部分を見るために自分を語る」という辺りの部分から、自己とそれに対する認識の話が続いていく。

 

ここで、はて、と思いまして。

(ここから一見関係無さそうな話が続きますがしばしお付き合いください)

 

ついこの間、年明けたばかり、僕は仕事があんまりうまくいっておりませんでした。

そんでもって、それに関して説教され、そのタイミングで一年の振り返りレポート発表が重なり、説教とレポートでダブルで自分の無能さを実感させられ、ボロボロに沈んでおりました。正直仕事やめたいというとこまでいっておりました。

しかし、本気で「やめてやる」とちょいと思って、転職サイトなどのぞきこんでみると、冷静にやめることを考えられるようになって、「追い込まれて辞める」というマイナスのイメージから、「ひとつの選択肢を選ぶ」というフェーズに考えられるようになりました。

また、レポート発表のタイミングで、直属上長は、ほめるでもけなすでもなく、淡々と「できたこと、できなかったこと」を評価してくださいました。そのおかげで、「あ、ここは本当に評価されていい項目なんだな」と、自分はできないばっかじゃないんだな、と思えました。

そういったこともあって、なんだかころっと気持ちが楽になって、「色々やってみるか!!!」という気になって、最近むしろ活動的になってきました。

 

 

はい。

ここまでが、「物語化した自分語り」です。

別に推敲して脚色したとかではなくて、ほんとに語っただけです。

では、一応の事実関係だけ書いていきましょう。

 

(昨年末)

私が仕事に関して疑問を持ち始める(このままで自分は向いているのか?)

→転職サイトを見始める

→少し辞めた後のイメージができるようになる

→年明け、説教される

→めっちゃへこむ

→飲み会でさらに体力を削られ、さらに不調

→淡々と上長にほめられる(特に心情変化なし)

→その後の土日を淡々と過ごす(気持ちは沈んだまま)

→日曜日友人とすごし、誕生日を祝われる。沈んだ気持ちが少しは変化?しかし沈んでいる

月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった

→それにともないメンタルも安定

→沈む思考からプラス思考へ

→現在

 

ポイントは"月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった"です。

あくまで時系列として、「転職サイト→上長の冷静な評価→メンタル改善」となっているだけで、これだけではそこに因果関係があるのかわかりません。

実際記憶をたどると、もちろん冷静な評価をしてくださったのは嬉しかったですが、かといってそれを気に上向きにメンタルがよくなっていったわけではありません。

実際はきっかけはわからないのです。

物語化を無視していってしまえば、「謎に良好な健康状態が急に来たため、それに伴って自身のメンタル調子もよくなった」にすぎないのです。

僕がそこに、勝手な物語を作ったにすぎないわけです。

 

これは当たり前と言えば当たり前なことです。

僕の体は一つですが、僕のからだに変化を与える出来事は一つではなく、それぞれ一つ一つに何かしら体が反応していくわけであって、もちろん前後の繋がりが全くないとまではいいませんが、前後に関係なく目の前の出来事に体が反応することは起こりうるわけです。

僕の「体の調子がよくなった」という事実は、僕が認識していない事柄(例えば睡眠の質、例えば食べた食事)が原因かもしれません。

しかしそれを僕は認識していないので、認識している範囲の事柄から因果関係を見つけるしかないのです。

 

僕がこれを何で書いたか、というのは、本当に「起きたら何故か体調とメンタルがよかった」という状態であり、そこから色々と前向きになったのは事実だということ、そして、「その理由がわからない」ということを忘れてはならないと思ったからです。

自己分析をする上で物語化は非常に大事になってくるとは思いますが、実際に起こったことを取りこぼしてしまっては、逆に自己への理解から遠退いてしまう。と思ったので。

 

うーんごめんなさい今回は特になんか言いたいことはそんだけなので、備忘録的な意味合いが強いです。まあなんかの参考になれば。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

処方箋・本谷有希子~群像(本谷有希子)を読んで~

本谷有希子を読んだのは、大学時代に"文学イキり"がしたかったのがきっかけだった。

 

ちょうど芥川賞発表があり、本谷有希子が載っていた。

それで、「最近の芥川賞作品は大体読んでいる」というイキりがしたくて、異類婚姻譚を読む前に、本谷有希子の作品をどばっと一気に借りたのだ。

作風もなにも知らない。ただイキリのためだけに借りたので、合うのかどうかもしらない。とりあえず手当たり次第読んでみるか、という程度であった。

 

するとどうだ。

「生きてるだけで、愛」で、メンヘラーな、人間のとがった部分のその先端の先端まで、事細かに書いていて、一切フィルターにかけられていない純度の高いドロドロの自意識を直接胃にぶちこまれた。

胃もたれするくらいだった。

だから僕は、「確かに読みたかった類いの話だが、もうちょっと整理してもいいんじゃないかな」と思ったのだった。

胃もたれするぐらいの作品は確かに僕は好きだが、そういう僕でさえ、「ちょっと次の作品食べるのはしばらく待つかな…」と思うくらいの胃もたれであったからだ。

 

しかしまあそこから案外慣れてくるもので、「あの子の考えることは、変」なぞ読んでみると、ダイオキシンといびきとでぶとGカップとセックスと、もうめちゃくちゃなわけだが、それでいてとてもおもしろい。

と、僕は思い始めていた。

ダイレクトに人間の底にあるものをずどんと食らうその快感に、はまり始めていたのだ。

このあたりで、僕の中での「本谷有希子」という名が、僕のなかでひとつの「処方箋・本谷有希子」となり始めていた。

 

タイトルに書いた「処方箋」についてだが。本を読む人間はだいたい作家で本を選ぶことが多い。

同じ作家の本をいくつか読んでいたらおのずと作家の系統や得意なものがわかってくるので、どういう気分、症状の時にこの作家の本が読みたい!となるのか、という部分も、そのうち決まってくるのだ。

 

それを僕は今ここで処方箋と読んでいる。

どういう症状の時にその作家の本を読みたいか。どういう時にその作家の本を処方してほしいか。

そういうときにその作家名が入った処方箋を、本屋に提出するのだ。

なぜわざわざ処方箋と呼ぶかというのは、その症状は「だるい」とか「つらい」とか「社会不適合でつらい」とかそんなもんでなく、「この作家の本が読みたい!!!!」という、えもいわれぬ症状だからである。いわゆる「病状:その作家さんの本を読まなきゃ死ぬ病」なのである。

 

だから僕は本屋や図書館に足しげく通い、何度も「処方箋・本谷有希子」を提出し、本谷有希子作品を処方してもらっていたのだ。

 

そうして何作か読んだあとに、ついに異類婚姻譚を読んだ。

しかしその感想はずいぶんあっさりしたもので、「あ、毒が抜けたのね」といったものだった。

先ほどもいっていたけれど、純度の高い本谷有希子は好きだけれど、処方してもらってる僕でさえ、「これは他の人に処方できるのか……?」と思うくらい、毒が強かった。副作用出まくるだろと思っていた。

だからもうちょっと毒が抜けたら、一般に受け入れられるだろう、と思っていたので、芥川賞本谷有希子は、僕はてっきり「一般向けに毒を抜きましたよ~~」という作品だとおもっていたのだ。

 

本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』/僕の神様だった彼女は“大人の寓話作家”になった http://tadeku.net/79487

 

だが。ここ(上記リンク)にあるように、ぼくが気づいた頃にはすでに「本谷有希子それそのもの」から毒が抜けきっていて、もうあともどりできなくなっていたのだ。僕は運良く?Ver1の本谷有希子しか、読んでいなかったのだ。

 

今回僕がそういうことを知らずに群像を買ったときには、わくわくしながら「処方箋・本谷有希子」をレジに持っていったのだ。

だが、処方された薬に毒はなく、むしろ「毒であろうとした作品」になっていた。

別にこれはこれでいい作品なのかもしれない。だが僕は僕の中で出来上がった「処方箋・本谷有希子」を提出し、「病状:本谷有希子を読まなければ治りません」という病気を治すためにこの本を処方してもらったのだ。

それでいて「この薬はいい薬ではあるんですよ」なんていわれても違う。

胃薬を求めて風邪薬を出されたようなもので、そこに風邪薬としての効用のよさを語られても、知ったことじゃない。

だから読めども読めども、僕の中ではうわすべりしていって、心の中になにも入ってこないのであった。

 

そしてさらに悲しくなったのが、なんだか「毒であろうとした部分」が少し残っていて、人間の毒気を書こうとしている感覚はあるのだけれども、ver1しか読んでいない人間からすれば、いかにもそれは「毒であろう」としているだけで、毒そのものではない。

なにか、「人間の暗い部分、汚い部分を書こう」としているのだけれども、最も深部を知っているからこそ、今の書き方ではどうにもこうにも「浅い」と感じてしまうのである。

「本当の旅」

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」

「でぶのハッピーバースデー」

この三作品とも、である。

「本当の旅」ではその影すらなく、後半二作品ではかろうじてその毒気がちらつくも、はたと消え入ってしまう。僕の感覚ではまだ「奥さん、犬は大丈夫だよね?」が近いか。

 

いずれにせよ、ゲロ甘ドロドロ人間シチューたる本谷有希子小説はそこになく、じっくりコトコト煮込んだシチューがスッキリとした味わいでそこにあるだけだった。

 

 

結論をのべると、今回の本谷有希子の新作は「僕はまともに評価できない」という感想だ。だって求めていたものがそもそも、違ったのだから。

ver2本谷有希子を、全くといっていいほど読んでいないのだから。

だから「本谷有希子がつまらない」といっているわけではない。「私の求めている本谷有希子ではない」という話である。そこのところだけ、どうか勘違いしないでいただきたい。

書くツールを言い訳にするな

(円城塔「これはペンです」の引用含みます。ご了承ください。気になったら「これはペンです」読んでほんと。)

 

僕は書くツールをよく言い訳にする。

PCがないとか手書きができないとかなんとかかんとか。

 

だが叔父は言ったのだ。

書くツールに左右されぬ文章を書くことを目指すと。

正確にはいってはいない。ただの姪の憶測でしかない。

ただ、そのツールが血であろうが磁石であろうが岩であろうがDNA塩基配列であろうが、何かの記号を伝えるという意味での「ペン」には変わりなく、そういう意味ではそこらじゅうにペンなぞ転がっているものだ。

 

書くツールによっての味の出方なんて、はっきりいって大差はない。編集のしやすさ、文字の書ける速度の違いが出るだけで、それがそんなに文章それそのものに出るかというと甚だ疑問である。

 

叔父は、いや、姪は言った。そんな書くツールによって左右されるような貧弱な文章は叔父にも劣らぬと。そこに書こうという力強い意思さえあれば何が転がっていようが書くし、最高の書斎と十分な休暇と最高級の文房具が揃ったところで、一切書かぬ。

 

スマホ芥川賞が取れるのに、なぜ書く環境がなければよい文章がかけないという道理が通るのだろうか。

ならばともかく何のペンを取ってでもなにかしらを書くべきで、それを整理してまとめるのは冷静な人間に任せればいい。

 

純度が高ければ高いほど、文章は生きるし、なにかを狙えば狙うほど、純度はさがってどろどろに濁って死ぬ。

だから純度が高い文章が息をしているうちにこの世に生み出しておいたほうがいい。

そうしなければ頭の中に放置されたまま、最高の書斎を探している間に文章はの垂れ死ぬ。

 

純度さえ高ければ、そこに過程は関係ない。

肘ついて100円バーガー食いながらくそ騒がしいマックで女子高生の話聞きながら書こうが、病床につき血反吐まみれで書こうが、よい文章は評価されるし、くそな文章はゴミ箱に捨てられる。

 

ならばまあ、ともかくゴミ箱に投下するつもりで吐き出しておくべきで、粗大ごみとして回収され燃やされたらそれはそれで仕方ないという気持ちで生み出しておくべきなのである。

 

というわけで、この文章も、ゴミ箱に捨てるつもりで放り込んだ文章である。

気に入った人は、てきとうに拾っておいてくれ