ばしこ氏のブログ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

『ルックバック』修正は別にフツーの話~ルックバック修正騒動に寄せて~

本タイトルには、「別にフツーの話で、特に変わったところはないのだが、なんだか物語を曲解して理解している人間が多いな」という感覚があったため、それに対する反論として「フツーの話」と表現している。

作品に対して異議が申し立てられた。

それに対して表現者が呼応した。

それだけである。

 

先に言っておくが「『斎藤環による不当なクレームで作品が取り下げられた!』と言うのは、正直藤本タツキ氏を侮辱しているとしか思えんからやめろ」というのが結論である。 

 

ただ、上記1段落で話を終わらせてしまうとあまりにも短絡的すぎるし、何言ってんだよおめーって感じなので、出来得る限り情報を集めてまとめている。

 

まず、本ブログ読者に理解しておきたい大前提として、全ての表現は人を傷つける可能性があるということである。

表現者は常にその傷つけることと向き合う必要がある。

現実のある出来事を物語化するとしたら必ず何かしらを省略しており、

その省略された中に大事なものを持っている人にとっては、その過程で傷つくことになる。

なので、表現者側は「どれだけ傷つきに呼応するか」は常に考えておかなければならない問題であると思う。

どれだけ傷つきに声を傾け、どれだけ無視するか。誰かは必ず無視しなければならないので、そのラインを自分の中で決めておく必要があると思う。

 

今回の『ルックバック』で言えば、「京アニ事件の被害者の傷つきは?」という部分に焦点があてられるはずであった。いや、当たっているはずだが、今回編集部・作者はそこには呼応していない。

 

そこの違いに本修正のいったい何が「フツー」なのか?が詰まっていると考える。

順を追って、丁寧に経緯を追っかけていこうと思う。

 

 

①ルックバックと言う作品

本記事を読む人間は、基本ルックバックを読んでいる人間と仮定しているが、ブログとして公開すると騒動を聞きつけて読みに来る人間もいるので書いておく。

(※既読の人は読み飛ばして可)

『ルックバック』とは、藤本タツキ氏の描いた漫画である。(下記リンク)

 

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+

 

その表現力と面白さに、ルックバックが公開されてからしばらくはTwitterのタイムラインがルックバック一色に染まった。

 

また、本作品の一部ポイントとして挙げられるのは、『京都アニメーション事件を意識している』という点である。

無差別殺傷事件が作中で起こり、その中で「作品をパクられた」と供述する犯人が登場する。

加えて、7月19日という、事件が起こった日の翌日に投稿されていることから、おおむね意識していると捉えて問題ない。

 

ただそれは作品の一部であり、作品の本質ではないことは明記しておく。

 

この作品が評価された理由は、漫画としての表現力の高さと、『作品を作るとは何か』『創作とは何か』ということに深く突っ込んだからであると思う。

(長くなるため、著者の感想はこの辺りで割愛する)

 

②公開後の反応~斎藤環氏の反応~

作品公開後に、色んな反応が見受けられたが、当然否定的な反応も見られた。

ここでは、個人による批判はあまり取り上げない(理由として、Twitterには『一切知識もないが、とりあえず何かに怒りたいので、知識がなくても怒れる範囲でとりあえず怒っておく』人間が一定数おり、まともな批判かそうでないかの判別がつかないため)。

 

とりわけ、作品公開時から批判をしていた精神科医斎藤環氏の発言を引用する。

 

 

先の文脈(『作品をパクった』としてキレて犯行に及んだ、事件直後の日に作品を投稿した)から、京アニ事件とかぶせて語る人間が非常に多くあらわれたことから、京アニ事件のほうに誤解が及ばないように上記ツイートを行った。

加えて、noteのほうに本マンガに対する意見表明を下記のように行った。

 

 

本文章の一部抜粋などは理解をゆがめてしまうので一回読んでいただきたい。

 

③修正の流れ

これを受けてかどうかは不明だが、大きく著名人として声を上げたのは斎藤環氏がメインと私は認識している。

結果として8月2日に修正が入った。

www.msn.com

 

一部抜粋する。

 編集部はツイッターで、「作品内に不適切な表現があるとの指摘を読者の方からいただきました。熟慮の結果、作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え、一部修正しました」と公表。集英社広報部によると、「作者側から修正したいと申し出があり、編集部と協議の上で決定した」という。

 

大きいのは、「作者側から修正したいと申し出」の部分であろう。

正直、この時点でこれ以上語ることはないのだが、誤った認識が広がっているような印象があるため、次の項目で詳細を書く。

 

④フツーの反応~何が「フツー」なの?~

さて、本題に入ろう。

 

はっきり言って、別に「フツー」の話である。

いったい何が「フツー」か?というと、『お前の表現で私は傷ついたぞ』と発言する人が出てくること。それに対して作者が呼応すること。

むしろ、先に挙げた「創作は常に誰かは必ず傷つける」ということを藤本タツキ氏が意識していたからこそ、鋭く素早く反応したのではないだろうか。

 

しかし、Twitterの反応を見るに、取り下げたことに対する反論や否定的意見がいくつか見受けられる。

 

当然ながら

・編集部が勝手に取り下げた(作者の許可なし)

・ジャンプ編集部よりさらに大きな権力からの圧力により取り下げられた

と言った事象であれば、表現の自由に関して大きく声を上げていくことは理解できる。

 

しかし今回の事件については、

・作者から申し出があり、議論の末に取り下げた

・発言者で著名人は斎藤環氏くらいで、政治家や団体の動きはない

という状況である。

 

つまり、別に、極端に言えば、『批判を無視し、そのまま掲載を続ける』選択肢もあったということだ。

そもそも、京都アニメーション放火事件に係る批判を避けるのであれば、日付をもっと遅らせる/早めるであったり、犯人の発言を先に変えておくといったことができただろうが、それをどちらも被せてきており、自分としては掲載当初「結構編集部、攻めたな」という印象があった。

京アニ事件がまだまだ記憶に新しく、かつ、自然にTVやネットを開いていれば京アニ事件の記事が流れてくる日にその漫画を掲載したということは、「ある程度の批判は覚悟の上で掲載を行った」ということである。

 

そうやって身構えている状態で、想定していた批判が来た。

で、「そうやって捉えられてしまうのは、自分としても望んでいないな」と、その声を評価し、表現を変える。

 

それは全く以て、表現においていくらでも起こりうることであり、「フツー」のこととしか言えない。

 

⑤見当違いな批判に対する反論~権力の差~

勘違いをしたままの批判が一部横行しているという印象があったため記載する。

そもそも、

「作品に対して批判があり、作者の意向により取り下げる」という行為に対して『作者が可哀想!!』『なんで批判したの!?』という意見は全く見当違いと言わざるを得ない。

 

それは、前述にもあるが、作家・編集部のほうが圧倒的に発信力と権力があるからである。

「権力を持っている側が、権力や力のない人間へ配慮をした」という構図であり、どうにも「作家を守ろう」とか「不当に取り下げられた」という意見を持つ人間が見受けられるが、権力勾配が全く逆だろう。

 

(※作家を守ろうとか、不当に取り下げられた、とか思ってない人は、この章は無視してかまわない)

 

元来、「表現の自由」とは、権力者側からの言論制圧に対抗するための言葉ではなかったのか。

ja.wikipedia.org

 

例えばだが、上記事件を例に出すと、性表現のある小説を掲載したことによりわいせつ文書販売の罪が問われた刑事事件である。しかし、その中で検察側(=ここでいう、編集部より権力のある側)の「わいせつ」の定義が非常にあいまいであったことから、「わいせつとは何か」という議論がなされることになる。

 

この議論がなされないままであると、権力者側がその時の気分でテキトーに不快なものを「はい、わいせつ」と判断して逮捕されることもあれば、権力者にとって都合の悪い出版物を無理やり「わいせつ物」と解釈し、規制することも可能となってしまう。

だからこそ上記事件は物議を呼んだし、わいせつ物の定義を明確に求めた。

 

 

話を戻そう。

何が言いたいかというと、極端なことを言えば

「ジャンプ+編集部は、一定の権力があり、人気と声の大きさに乗じて、一部批判を無視することも十分可能」ということである。

それはそこらのド素人や一作家よりも、ジャンプ+編集部のほうが圧倒的に発信力を持っているからである。

 

こういった話をすると

『近年のネット炎上は無視できないだろ!!』

という声が上がるので、次項で反論する。

 

⑥『批判すること』と『クレーマー』を同義にするな

近年のネット炎上において、直近で話題になったオリンピック開会式のプロデューサーである小林賢太郎氏が過去のユダヤ人揶揄のコントを元に解任されたことがあったが、話があがってから1日か2日程度で即解任となり、議論をする余地がなく、後になりイスラエルの新聞社「ハアレツ」が「我々は1998年(※コントを行った時期)の冗談を気にしていない」といい、小林賢太郎の解任を撤回するよう求めた記事が話題となった。

(参考:Tokyo Olympics: An old Holocaust joke is no reason to fire the opening ceremony director - Opinion - Haaretz.com

本来であれば、通常は「このコントは問題か?」「その後に改心していくかが問題では?」「当事者たちはどう考えるか?」と言った議論が丁寧になされた後で、解任を求めるほどなのかどうか、と判断していくはずなのだが、そういった議論をすることもなく、安易に解任されてしまった。

(※これは「解任は誤った判断」という指摘ではなく「まともな議論の時間を設けぬまま解任したのは誤った判断。最終的に解任になるかどうかは別問題」という指摘である)

 

何が言いたいかというと

『批判の大きさではなく、その本質を捉えて呼応せよ』ということである。

痛いところを突かれた批判であれば、それに対応できていないのであれば、それは現状で炎上していなくても絶対に火種となるし、今後消える要素がない。しかし、本質から全く外れた、いわゆるクレームであれば、『それは本質ではない』とただ反論すればよいだけである。

 

そもそも、先にも上げたように何でも誰でも表現というのは必ず傷つく人間がおり、だからこそ常に声を上げている人はいる(例えば少年ジャンプのエロ表現に常に声を上げている層はいる)が、少年ジャンプは無視し続けている。

これは別に「声を聞け!」というわけではなく、声を聞いたうえで「本質的な批判ではない」と判断しているということである。
そもそも有名雑誌であれば無限にイチャモンが飛んでくるので、根拠のない炎上に屈するようなら、たぶん全部の漫画は簡単に撤回されるだろう。

 

むしろ、今回の斎藤環氏の発言によって、言うほどルックバックが燃えていたか?というと、そこまで燃えていないという印象がある。 

大きく燃えていないうちに作家自身が呼応したというのは、それを作家が『本質的な指摘』だと感じた証拠だと思う。

 

 

diamond.jp

 

もちろん、一般人が燃えた場合はなかなかに無視できないから、上記のように実害がおよび、無視できない場合もある。

 

しかし上記の記事の例で言えば、問題なのは

『当該女性を勝手に煽り運転の加担者と判断し、嫌がらせをした人間』

であり

煽り運転を批判する人間』

が何も問題なわけではない。

 

そこを分けずに一緒くたに『煽り運転を批判する人間』と括ってしまうからややこしいことになる。

 

話を戻そう。

仮に今回の事件で、藤本タツキ氏のルックバックが大炎上し、その批判を無視したとしよう。その場合に及ぶ被害と言うのは

・批判に乗じて、タツキ氏に嫌がらせをする人間

・批判に乗じて漫画のすべてを否定しようとする人間

等が起こすものであり、あくまでも「批判に乗じて関係ない事をするバカ」が問題なのであり、批判をしている斎藤環氏自体の問題ではない。

 

もちろん、そういう意味で言えば、斎藤環氏の批判が『こんな作家をのさぼらせてはいけない。今すぐチェンソーマンもすべて本屋から撤去せよ』『いますぐジャンプに全員で抗議電話をかけろ』などどいった内容であったなら、私は一切支持していないというか普通に通報していたところだった。しかしそうではない。

 

『批判すること』と『クレーマー』を一緒くたにし、クレーマーを否定する論理で『批判』それそのものを批判するような、全く論理性のないツイートが数千RT伸びるのがツイッターであり、そこに本質はない。

 

⑦結論:藤本タツキに失礼

「この表現が取り下げられてつまらなくなった」と言うことについては、まあTwitterの「つぶやき」だし感想なので、それについてどうこう言うことはできない。

ただ、『不当なクレームにより取り下げさせられた』『なぜ批判したのか』『うるさいクレームが入った』などという意見については、

ハッキリ言って藤本タツキ氏に失礼である。

 

そういった意見と言うのは、藤本タツキ氏が作品について、批判される覚悟もなく作品を投稿し、かつ、何も考えずにネットの声に言われるがままに表現を取り下げたと決めつけることに他ならないからである。

ルックバックで一体彼らは何を見たのだろうか?

藤本タツキ氏という、作品に対して妥協しない作家像ではなかったのだろうか?

タツキ氏が簡易な炎上で、作品の演出などを一切顧みず「とりあえず下げときますわ」で済ます人間だと思っているのだろうか?

ネットで物議を醸すことを一切想定せずに京アニ事件に絡めて投稿したのだろうか?

むしろ、かなり切り込んで描いたからこそ評価されたのだろう。

 

その藤本タツキ氏が、多少の批判は覚悟の上で出した作品について、批判を受けて取り下げたのであれば、もう我々が勝手に『守ろう』などと言う愚かな正義感を持つことは今すぐやめるべきである。

 

 彼がその判断をした時点で我々から特に言うことはないのである。