ネットミームにおけるあいまいさについて~オタサーの姫~
きっかけはこのnote。
(※本ブログ記事は、本議論には深く入らず、あくまでも「オタサーの姫」というワードについて考察するため、別に冬優子のこと知らなくて読んでもよかですたい)
冬優子を知らない人は、『BRUTUSという雑誌の企画にて、自分の好きな冬優子というキャラクターが「腹黒、オタサーの姫」として紹介される一文があったが、冬優子はそういうキャラではない』という話である。
僕も冬優子をよく存じ上げているので「うんうん」と思っていたが、どうにもネット上の反応は二分されている。
・わかる派
・わかるけど、「オタサーの姫」と言われて確かに~とか、わかりやすく表現するならこれだな~と思う派
この二分があり、特に後者が気になったのだ。
自分としては「オタサーの姫」というワードに、かなり強い侮辱や揶揄の意味を含んでいると考えていて、あまり後者の思考にはならかった。
だが、そもそも考えていたのが、僕は高校時代(だいたい10年前)にもオタサーの姫を観測しており、そのワードを使用しており、たぶん思春期ぐらいにちょうどオタサーの姫というワードが誕生しかかる時期ぐらいから、オタサーの姫という言葉に触れていたので、そもそも後者の人々とワードの感覚が違うのではないか(悪く言えば自分のほうが古臭いのでは)、という発想があったので、ちょっと立ち止まって考えてみたい。
・揶揄するワードは使われれば使われるほど「軽くなる」?
完全に文献やデータはない。肌感でお話させてもらうので、明確に違うという論拠があったら指摘いただきたい。
こういう揶揄するワードは、ワードが誕生した初期こそ、かなり重めの使われ方…というか、狭義の使われ方をする。
言葉が生まれる時というのは、必要に駆られて生まれるわけで、それこそ「オタサーの姫」というワードは、オタサーに一人はいるゴスロリの女の子とそれをちやほやする構図にものすごい違和感を覚えた人々がそれを呼称するために使い始めたのだろう。
だからこそ、言葉の流行りの初期段階ではかなり揶揄や否定の意味合いが強いワードである、と僕は思っている。
(僕の認識はこれが強い)
しかし、だんだん「オタサーの姫」という言葉が流行り始めるにあたり、「オタサーの姫」と言うワード自体が「これもオタサーの姫なんじゃない?」「あれもオタサーの姫なんじゃない?」とどんどん使われるようになり、定義がどんどん広がっていった。
あるいは、本来の定義ではなかったにせよ、世間がそのように「オタサーの姫」というワードを使いだした。事実、今ざっとamazonで調べただけでも、「オタサーの姫」と言うワードを使用した書籍や、キャラクターの特徴を表す言葉として多用されている。
さて、このように、おそらく「オタサーの姫」と言うワードは、使用される頻度が繰り返し向上したことで、使われるハードルが昔より下がり、現在において「オタサーの姫」は『属性』の一つのように扱われているような印象がある。
わかりやすくいえば、「ヤンデレ」「ツンデレ」のようなものである。
似たようなワードとして「メンヘラ」も挙げられるか。
あれももとは「メンタルヘルス」から始まっており、精神病を患っている人々の自称から始まっているが、10年前よりもかなりフランクな意味合い(精神病を患っていなくても、全体的に「めんどくさいかまってちゃん」レベルでも使われているような印象はある)になっている気がする。
ここで難しいのが、そのワードの取り扱い方である。
結局、元の意味合いから大きく外れて広がっていっているが、
こういったネットミームはもともとの発祥自体あいまいである上、現在の文化と溶け合い、常に変化し続けているため、特に厳密に、ワードの定義があるわけではないのである。
だからおそらく、前述にあげた「オタサーの姫って別に属性として言っているんだから別にいいんじゃないの?」という感想を持つ人々は、オタサーの姫を知ったタイミングが僕よりかなり後であったからこそ、そういう印象を持っているんだと思われる。つまり、揶揄の意味合いで強く使われていた時代に触れていないのである。
ここで「ワードの取り扱い方が難しい」と言ったのは、何もこれは「あとから来た奴ら、使い方間違ってんぞ」という意味合いではなく、さっきも言ったように厳密に語源があったりするわけではなく、ネット・オタクミームの水面下で細々と引き継がれながら、非常にあいまいなまま育ったワードであり、それを言うなら、そもそも厳密な定義なぞ存在しない、というものであり、人によってだいたいの定義は一緒にせよ、そのワードから感じる「否定の強さ」はかなり差があるのではなかろうか。
逆に言えば、僕が生まれたばかりに使われていたワードについて、僕が無知な世界のワードについて、もしかしたら、僕は気軽に使っているが、他の人は不快に思うワードがあるのかもしれない。
しかし言葉は使われない限り意味がないので、「不快だから使うな」という安直な終わり方にするわけにもいかず、しかしかといって、この『否定の強さ』の感じ方のギャップをいかにして埋めようか?という問題の解決方法が、いまのところ全く思い浮かばない。
だから「難しいねえこの問題」というオチが卑怯なのはわかっているが、申し訳ないが解決方法は今のところ思いつかない。
・オタサーの姫って言葉に結構強い否定の意味、揶揄の意味合いを感じるよ
・オタサーの姫って言葉、まあ揶揄の言葉らしいけど、そんなに強い否定には感じたことないよ
・どっちでもないよ。オタサーの姫って言葉は…(以下自由記述)
どの意見もうかがいたい。
あくまでも、ここに書いているのは僕の仮説なので。
あなたはオタサーの姫って言葉にどういう印象を覚えますか?
おしえてちょ。
芹沢あさひになれなかったオタクたち
前回
空気が読めなかったオタクは必ず芹沢あさひにハマる。
唐突に芹沢あさひにハマったのでそれの怪文書として自分語りをするので許してほしい。
自分語り殺すデーモンにたぶん殺されるだろうけど。
・我々は芹沢あさひのなりかけである。
空気が読めなかったオタクは結構いるだろうし、逆に空気がゴリゴリに読めるなら陽キャパリピにでもなってTwitterなんぞ使わずにインスタグラムでウェイウェイBBQをやっているに決まっている。
まあドドド・ド偏見であることは分かっているのだけれど、だいたいのオタクはそうであると思う。空気を読むという技術は長く生きていく中で後天的になんとか得た技術であると思うし、元々先天的にあったオタクはあまりいないんではなかろうか。
僕もハッキリ言って空気はさっぱり読めなかったし、それに対して全く無自覚であるあさひの気持ちがめちゃくちゃわかる。
めちゃくちゃわかるが、僕はあさひではない。
そこの違いは何かというと、「自己肯定感」な気がする。
これはイベント「Straylight.run()」の第五話の一端であるが、
基本的にあさひは自分が好かれる/好かれないについては全く気にしない。
空気を読めないし、”読まない”のだ。
そこには大きく違いがある。空気が”読めない”だけの人の場合は、
空気を読みたいが読めない、ということが起こり、本人にとってはマイナスでしかない。
しかし、この「Straylight.run()」を見ればわかるように、
空気を”読まない”方向に貫いているから、それが、空気を読もうよもうとする冬優子にとっては刺激になっている。
そう、この”読まない”が相当難しい。
我々は人間である以上、何かしらの肯定が欲しい。
大小あれど、自分が優れているだとか、自分が尊敬する人に認められるとか、
自分がやりたいことが成功するとか、何かしらのプラスが欲しい。
人生のコツは他者にそれを求めず、自分の中で絶対的な自信と楽しさを持つこと……というのが、年を食っているとわかってはくるのに、理屈ではわかるのに、もう空気を読むのが圧倒的にクセとしてべったり張り付いてしまっており、いまさらこれをはがそうとしても無理なのである。
空気を読まないことでそれがプラスになることがわかっていても、一度読むことがクセになってしまうと、それをやめることはできず、延々と空気を読みたい…となってしまう。
昔、自分もハッキリ言って空気が読めないクソガキだった。
全く無自覚だったから覚えていないが、少なくとも「うるせえ!」「しゃーしい!!」とめちゃくちゃ怒られていたのは覚えている。
覚えてる限りだと、ともかく話がしたくてしょうがないが、身近な親族は「しゃーしい」と言われ聞いてくれないので、交通安全整理をしているおじさんにめちゃくちゃ話しかけたり、道行くおじさんが話しかけてきたらこっちからガンガン話したり、コミュ力バカ壊れ状態であった。
公民館に言って将棋やってるおっさんに話しかけたり、もうなんでんかんでん、話すエネルギーが有り余ってしょうがなかった。
だからそれで全く仲良くない人にもガンガン話しかけていたようで、「自分はほんわり名前ぐらいは憶えてる」程度の同級生から、十年後めちゃくちゃ覚えられているみたいなことが多々あって驚いたことがある(めちゃくちゃ話しかけた自覚がないっぽい)。
たぶんそこでそのままいい意味で”空気を読まない”が続いていればよかったが、そうはならんかった。
結局、芹沢あさひ的行動を身近で何度も何度もされて、かつ愛嬌や、それ以外の抜きんでた能力がなければ、ただひたすら「しゃーしい」だけで、めちゃくちゃ否定されまくることになる。
小学校なら「やかましい子ねえ」ぐらいで済むのでまだなんとかなったが、中学生ぐらいになるとぼちぼち「うざい」になってくる。
そこで自己肯定感がだんだんずたずたになる。
そうなってくると、もっと誰かに認めてほしいし、みんなが話を聞いてくれなくなって、誰かに聞いてほしいという想いがどんどん強くなり、「こっちを向いてほしい」という想いのほうが、強くなっていった。
自分が自由にふるまいたい、というよりも。
そうなると、こっちを向いてもらうには、自分の中の突発的な興味や関心、行動力は封印しないといけなくなる。
空気を”読みたい”と思うようになってしまった。
それを封印して多少はうまくいくようになり、恋人が出来たり、まともな職についたりできた。
が、本当に、そうなりたかったんだろうか。
僕はいまだに自分の中で突発的に色んなアイディアがうかんで、やりたくなるし行動したくなることがあるが、それを抑え込んで生活している。
それを抑え込まなければ、今のまともな生活は送れない。
ぶっ飛んだ行動ができるのは、ぶっ飛んだ行動が価値にならないといけない。
あるいは、財産が既にめっちゃあってぶっ飛んだ行動しまくっても問題ない、社会に適合する必要がない…そんな状況でないと難しい。
自分の中で暴れる芹沢あさひを抑えつつ普段を生きている。
けどそれは芹沢あさひの横にふゆこちゃんが居てバランスを取っているような構図ではない。
自分の中の芹沢あさひに「勝手にうろちょろするなクソガキっ!!」って怒鳴り続けるような構図である。
自分の中の、自由に暴れまわる本能は、いつぞや幼き頃に「うざい」「鬱陶しい」「しゃーしい」「小賢しい」「騒がしい」「黙れ」と言われたことに怯えており、その怯えから逃げるように、自分も本能を怒鳴る側に回ってしまっているのである。
だから我々は、芹沢あさひのなりかけだが、芹沢あさひにはなれないのである。
だから、芹沢あさひは幸せに育ってほしいのだ。
芹沢あさひはこのまま、幸せに、みんなに愛されながら育ってほしい。
「いやあ~もうあんな感じだったら傷ついたりしないんじゃない?」というバカがいたら5000mの助走をつけて顔面ぶん殴ってやるから首洗って待ってろ。
思春期の多感な時期は、今まで築き上げた肯定感があっさり崩れることもある。
だから、そんな最低なイベントが来ないまま、あの肯定感のまま、大きく育ってほしいのだ。
我々はそうはならなかった。ならなかったのは、肯定感を築けなかったから。
我々は、我々の中の”芹沢あさひ”に、優しくなれなかった。かたくかたく、心の奥底に無理やりに封じ込めてしまった。見えないようにしてしまった。
だから、現実の芹沢あさひにはそうはなってほしくない。
だから我々は、芹沢あさひの肯定感の一端となろう。
え、芹沢あさひが我々を認知しない?
それは当たり前のことである。
であっても、ファンのひとりであることで、彼女の無自覚な肯定感を助けることができる。
だから、空気が読めないし、読まないことができなかった私は、芹沢あさひを推すのである。
芹沢あさひを肯定し続けるのである。
芹沢あさひを馬鹿にしたり傷つけてやろうと思うクソヤローの否定なんざぶっ飛ばせるぐらいの肯定感をファンが与えるのである。
芹沢あさひは、我々とは違う存在である。
だが、数%、我々のほうに堕ちてきてしまう可能性がある。
そうなってはならない。
彼女らには迷うことなく、まっすぐな光となって、一直線に駆け抜けてほしいのだ。
>数%、我々のほうに堕ちてきてしまう可能性がある。
いや、違うな。
もしかしたら、芹沢あさひが僕とは全くもって違う存在であることはわかりきっているのかもしれない。
自分の中の芹沢あさひ…自分の中の、暴走し続けるハチャメチャな行動力を、肯定してあげたいのかもしれない。
そのために芹沢あさひを応援しているところが、あるのかもしれない。
僕が芹沢あさひを応援することで、自分の中のハチャメチャも好きになれるんじゃないかという、悲しい生き物なのかもしれない。
それでも、芹沢あさひに純粋に、誰かがあくどいことをすることなく、純粋なままでいてほしいし、そのまま幸せになってほしいという想いは、こちらがいくら悲しい憐れな生き物であろうと、彼女が幸せになれば何でもよい。
我々が泥まみれになっても、どこにもたどり着かぬ迷光としてさまよい続けていても、彼女だけが、彼女たちだけがまっすぐであればそれでいい。
少し話題が違うが、それで言うと、冬優子ちゃんも、我々と少しだけ似ていて、それでいて全く違うのだ。
空気を読もうとするがゆえに苦しむことがある。
我々と決定的に違うのは、空気がちゃんと読める事である。
そして、肯定感が欲しいと思っているが、肯定感を『正しく』取りに行っている。
たまに「冬優子ちゃんをオタサーの姫とか言うな」という言動が流れるが、それはなぜかというと、アイドルであるということや、今までのストーリーを全く無視して、ファンに「ふゆは~」と媚びるシーンだけを見れば、オタサーの姫のように見えるが、内情を見れば全くそんなことはないからである。
オタサーの姫と呼ばれる存在は、肯定感を正しく取りに行っていない。自分が得られなかった肯定感を疑似的に得たいが為に、得られる場所まで「降りて」いって、それで自分は満足していないはずなのに、満足しているように思いこむ存在である。
冬優子は逆だ。
むしろ、得られる場所まで「上がって」いく。
もっともっと高みを目指して、あがっていく。
オタサーの姫が、オタサーという狭い世界に閉じこもることで、外界を見ずに、自分が一位の世界で閉じこもることで、自分は本当に世界一位なんだと思い込むことである一方、冬優子は自分の世界に閉じこもることなく、外の世界に飛び出していく。
外の世界に自分をさらけ出して、評価の元に晒されにいく。
そこで、似ているようで違うのである。冬優子は。
逆に愛依ちゃんは、似ていないようで一緒な部分がある。
我々オタクからすれば愛依ちゃんのような存在はまるで真逆な存在だが、その中身はむしろあさひに元気づけられるほど、引っ込み思案な存在である。
そういったところが、少し似ていて全然違うところが、Straylightの魅力なんじゃなかろうか。
ちょっとずつ共感するけど、尊敬できる存在。輝かしい存在。
それがStraylight。
また話は違うが、Straylightとは、我々ファンのことではなかろうか??
Straylightとは「迷光」のことだが、たしかにStraylightはアイドルとして迷い、悩みながら突き進んでいるんだろうが、それはどのアイドルも同じことで、Straylightが取り立てて迷走していたかというとそうではない。
彼女らはむしろまっすぐな光で、それに惹かれる我々のほうが「迷光」ではないだろうか。
逆に、そうでなければ、ここでいう「迷光を纏い」の『纏い』がしっくりこない。
我々は、Straylightを纏う迷光なのではなかろうか。
我々自身がStraylightなのではなかろうか。
我々がStraylightを推し続けることで、彼女らの安寧は保たれる。
我々が、直接的に見えなくとも、纏う光のようにふわっとでも、
Straylightを助けることができるとしたら、応援し続けることなのだ。
そう、我ら芹沢あさひになれなかったオタクたちは、
自分の救済のため、芹沢あさひにそのままでいてほしいがゆえに、
芹沢あさひを推すのだ。
芹沢あさひを推せ。
芹沢あさひがただそのまま、幸せになるように願え。
我々とは違う。
似ている?いいや違う。
我々は太陽の周囲を舞うはかなき蛍の光。
太陽のために焼かれ、それでも推し続けろ。
芹沢あさひは我々の救いなのだ。
まぎれもなく神なのだ。
だから芹沢あさひを推せ。
推して推して、推し続けるのだ。
(おまけ)
あさひちゃんが変わってほしくないからといって創作で殺しまくっちゃうのはダメだぞ♡
殺すというか、なんか天才、夭折…という感じで早死にしそう…という着想からあさひちゃんが事故か何かで死んじゃった作品を書くことね…。
でも生きてると変に近づいてしまってあさひを穢してしまう可能性があるから…。
死んでたら存分に追っかけられるし……(闇のオタクか?)
追記:芹沢あさひへの想いが限界突破して小説書いた
推しはいつかお前にも降臨する~芹沢あさひという神~
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな
『推し、燃ゆ』 p37
これは第164回芥川賞である宇佐見りん『推し、燃ゆ』からの引用である。
上記掲載記事は僕が執筆したのだけど、これを執筆した時は、どうも”推し”という概念が理解できなかった。
だからどっちかというと、これを読んだ時「へぇ~推しってこんな概念なのかあ」というくらいに思っていた。
自分に推しができてハマるというイメージがよくできていなかったので、他人事として見ていたが、記事執筆から半年もたたずにあっさり推しを見つけることとなる。
芹沢あさひ。
今はともかく”推し”ができる事について語りたい。
ので、芹沢あさひを知らん人も”推し”について読んでいってほし。
目次
◆”推し”ができた ~芹沢あさひ~
まだ”推し”ができた…という言い方をしていいのかわからないけれども。
”推し”という感覚が分かった、という言い方かもしれない。
正直これより前に3000文字ぐらいの前章譚を書いて、自分のオタク人生でいかに推しがいなかったかを書いていたのだけれども、ハッキリ言って無駄だから全部消した。
”推し”ができるのは突然だし、それまでさっぱりできなかったし、順序なんてない。
だから私も安易に「君たちの人生に、推しを作ろっ!」なんて馬鹿げた頭ハッピーセットな言葉をささげるつもりはない。
推しは勝手に『降りて』くる。
「ある日」は唐突にやってくる
その「ある日」がやってきて、僕は推しができた。
なので「いつかお前にもわかるときがくる…」と後方腕組み彼氏面をして推しがいない人々のことを眺めておくことにする。
その「ある日」がやってくるまで、作ろうと思ってできるものではないので。
と、ここまで盛り上げるわりには出会いは割とあっさりしたもんである。
ツイッターで芹沢あさひというキャラクターの二次創作漫画がちらちらと流れてくるもんだから、「ほーん、人気なのか」というのと、「何となくこのキャラ好きそう」と思って、芹沢あさひが登場するゲーム「アイドルマスターシャイニーカラーズ」を始めてみたのだ。
で、だいたいの沼にはいったんどっぷりつかってみるのだが、風呂でも入ったかのように「あ~さっぱりした」と沼から抜け出してしまうのが常だったが、どっぷり肩まで使ってみたらそのまま引きずり込まれた。
何で推しになったかー。キャラクターの絶妙な立ち位置による、僕とのちょうどよい関係性なんだと思う。
◆キャラクターよ、こっちを見るな
芹沢あさひはハッキリ言って自由奔放キャラだ。
まったくもって制御が利かないし、『謎キャラ』なんて作ったものではない。
完全にその場の思い付きで行動しており、そこに深い意味や、オタクに媚びる意味もなく、プレイヤーに媚びる意味合いもさっぱりない。
一つ例を挙げよう。
まず、アイドルマスターシャイニーカラーズはアイドル育成ゲームである。
まだデビューしたてのアイドルを、プレイヤー自らプロデュースすることでトップアイドルへ押し上げていくのだが…。
(※今後「プロデューサー」と表記のあるものは「プレイヤー」を意味するので注意されたし)
この芹沢あさひは中学生。そして、自由。
どう自由かというと、突如「そば屋に弟子入りするっす!」とか言い出す。
は?
別にそれが
次の仕事にたまたまつながります!
とか
蕎麦屋に好きな男性がよく来るから…
とか
プレイヤーさんのために…
とか、なーんもない。
そば、ストーリーに何の関係もない。
で、そばの出前を、そばの大将のおっちゃんと楽しそうにやったりしている。
そうかと思えば、街中でクワガタ見つけてよろこんで電柱に飛びついたりしている。
もうマジで、目の前しか見えていないタイプなのだ。
逆に言えば、この子、よくも悪くも”こちらを見すぎない”。
だいたいこの手のゲームは、プレイヤーを見る。
プレイヤーにベクトルを向ける。
プレイヤーと、接しようとする。
あまつさえ、”恋愛”ないしはそうとしか言えないぐらいの、
不自然な好意を見せることが多い。
まっ、オタクとか、恋愛とか、不自然な好意でも、
好意持たれたら嬉しいっしょ?とかいう舐めたシナリオを見かけることがある。
はぁ~~(呆れ)
そういうシナリオを見るたびだいたいこういう気持ちになっている。
「べ、別にプロデューサーのこと好きじゃないし…」
やめろ。
「プロデューサーさん…♡」
やめろ。
"こちら"と関わろうとするな。
こちらを向くな。
こちらと恋愛しようとするな。
人と関わるのが嫌でゲームや創作に逃げているのに
なんでこちらに関わろうとする?
そして何よりも、こちらを向いている…だけではなく”媚びている”のは、
どうにも違和感を感じるし、その瞬間「あ、ゲームだ」と落ち着く。
それを感じさせないためには、純粋に「恋愛抜きで好きなんだな」といかに思わせるかであろう(そういう意味では後述するが、別に芹沢ひいきではなく、果穂ちゃんなんかも恋愛とかではなく純粋にプロデューサーを慕っているという感じがして好きである)
◆神の”見える”手
また、まだせめて恋愛になるのがわかるような流れであればよいが、大半がそういう恋愛あるいは恋愛のように見える流れに無理にもっていってしまったり、それありきでシナリオを組むから、どうしてもそこに違和感が発生する。恋愛…とまではいわずとも、「プロデューサーへの親しみ」というより「好意」に寄っている…というイメージ。
そこに『神の見えざる手』が介入している。
言葉の本来の用途とは違うが、ここで言う神は製作者のことである。
シナリオライターやそのスポンサーの思惑や、販売戦略によって、そういう手によって、キャラクターがプロデューサーを好きになるように動かされる。
(※本来の用途は経済学の用語)
それが結局、長くオタクやっていると、『神の見える手』になってしまう。
何度も何度も使い古されたテンプレが使用されたり、シナリオが急に変化すると、シナリオライターの実力不足なのか手抜きなのかもしれないが、「あっ、これ、”シナリオのためにキャラが動いた”んだな」と見えてしまう。違和感が浮き彫りになってしまう。
そうなった瞬間、僕らはゲームに没入して、アイドルに囲まれた夢のような二次元空間から引きずり出され、四畳半のカップ麺の食いかけが転がったクソみたいな一人部屋に戻される羽目になる。
一番いやなのはそこだ。
ハッキリ言って、「視聴者のいらんクソ性欲のためにキャラの芯をブレさせられた」というのがあからさま見れるとマジで「はぁ~~~~~(呆れ)」にしかならない
(追記 2020/2/16)
奥が深いんだが、「恋愛が一方的にダメ」なのではなく、「シナリオライターの意図が見えてしまうような恋愛シナリオは多く、そうなってしまうと嫌になる」ということが本筋。アイドルマスターシャイニーカラーズは他のアイマスよりもプロデューサー自体のキャラがたっているという指摘もあり、事実僕は他のキャラクターにおいて、「プロデューサーと○○ちゃんの組み合わせはいいな……」と思う組み合わせもあった。
(※それは「僕×○○ちゃん」ではない。あくまでプロデューサーという別の人間)
それは丁寧にシナリオを作り込んだからプロデューサーとキャラクターの恋愛や好意が違和感なく見えるのだが、どうもこの手のゲームにおいてはそこの恋愛にいく流れをさも当たり前のように、根拠なく持っていく傾向があり、それに対する批判であることを追記しておく。
(追記終わり)
一方で芹沢あさひは、プレイヤーたる芹沢あさひともちろんかかわりはするものの、
「プロデューサーさんありがとっす!!!すきっす!!!!!」とか言うものの、別に恋愛的に好きとかなんとか、そういうものはない。
「えへへ…プロデューサー大好き…」みたいなことは死んでも言わない。
逆に
「プロデューサー…お前嫌い…」みたいなことも言わない。
それ絶対後でデレるフラグじゃん~~~そのために言わせてるだけだろバーカバーカ恋愛至上主義どもめ。
そもそも芹沢あさひの興味の中心は、自分の周りを取り巻く目の前のことで、最終的にストレイライト(※所属しているグループのこと)に帰ってくるにせよ、基本は自由奔放なので、そもそもプロデューサーばかりに矢印を向けている暇などない。
だから、芹沢あさひを応援するということは、とても心地がよいことなのだ。
むしろ、それが”推し”という概念としてしっくりくるのかもしれない。
”恋愛的に好きで、関わりたい、一緒にいたい”というのとは違う。
遠巻きに見ていて、応援しておきたいのだ。
たとえあさひちゃんが自由奔放すぎて
「おーし!アイドル辞めて蕎麦屋始めるっすよ!」とかガチで言いだしても、
遠目に応援しておきたいのだ。
あさひちゃんが自由であることを我々は応援したいのだ。
だからあさひちゃんがプロデューサーと仲良くしている漫画も、あくまでも「仲良くしている漫画」でないと全く受け付けない、変に恋愛的になると嫌だ、生理的に無理。
そこには絶対的な壁があるだろうし、むしろ、あってほしいし、
芹沢あさひはこちらになびいたりすることはないだろうという安心感がそこにはある。
携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。
『推し、燃ゆ』 p62
こちら側との隔たりが明確にあるからこそ、僕らは安心して”推す”ことができる。
二次元と我々には隔たりがその時点であるだろう。
しかし、シナリオでプレイする以上、一人称視点でプレイする以上、プレイヤーとキャラクターにも、ちゃんと一定の隔たりがあってほしい。
恋愛により”関わり”を持とうとする流れで、そこの隔たりが崩壊する。
向こうはこちらを見ることになるし、こちら側が勝手に”こいつに好意を向けられたいと思っているヤツ”として断定されることになる。
シナリオに勝手に自分が組み込まれ、近づきたくない距離まで無理やりにキャラクターを押し付けられる。
さながら『学校でただ仲良くしていただけなのに勝手に周囲が恋仲にしようともくろんで、「あっ、君たちは二人で帰ったら~?(笑)」とか囲いだしてクソ迷惑に思っている男女二人組』という状態である。
恋愛ゲームをやりたいときは恋愛ゲームをやるから。
頼むからアイドルゲームなんだから、純粋にアイドルを応援させてくれ。
勝手に恋愛要素に持ち込むな。
だから芹沢あさひなんだ。
僕は彼女みたいに自由にいたかったが、なれなかった。
だから彼女には自由でいてほしい。
いちいちこっちを向くな。
そんな暇があるか。
そんな暇があったら自由に飛び回れ。
老舗100年の蕎麦屋に「ナポリタンとか作らないんすか?」とか言ってくれ
「じゃ私が作るっす!」とか言って蕎麦屋の隣にナポリタン屋作ってくれ
そんなことするのにこっちみてる暇があるか?あるわけない。
『神の見える手』…によって芹沢あさひが縛られることは許されない。
というか、おそらく縛ることは無理だ。
芹沢あさひはシナリオさえぶち壊すような、完全に「キャラ」として一人で立っており、シナリオを描く際に「シナリオに沿ってキャラが動く」タイプと「キャラに沿ってシナリオが動く」タイプがいるが、芹沢あさひは圧倒的に後者なのである。
シナリオ?知らないっす。
プロデューサー?まあスキっすけどね。
あ!カブトムシ!!!!!!!!
そんなことよりカブトムシっすよプロデューサーさん!!!!!!
そんなキャラである、芹沢あさひは。
◆現代人には”神”となりうる背骨が足りない
急転直下でいきなり真面目な話をするが、現代日本人に宗教はあまりなじみがない。
宗教=新興宗教という誤った考えが広がってしまうほどには、欧米諸国のように
宗教が根付いていることはない。
もちろん、通常冠婚葬祭でどういう形式で行うか…という程度には宗教的文化は存在するが、そこに「神を信仰する」という概念は無きに等しく、「とりあえずそういう文化でなじんできたから」という感覚で葬式を上げ、火葬する。
しかし、はっきり言って現代人には神が必要なのである。
これは別に怪しい新興宗教に入れという意味でも、キリスト教に入れというわけでも、ない。
『神的存在』が必要、ということである。
それであれば別に何でもよい。
それがここで言う芹沢あさひであってもよい。
ふざけてはいない。至って大真面目である。
神のような、安定して頼れる存在、心の拠り所。『推し、燃ゆ』でいう背骨が必要ということ。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな
『推し、燃ゆ』 p37
そのうえで重要なのがやはり”推し”という神を見つける事であり、その距離感なのである。
これが”推し”ではなく、好きな人、恋愛対象であったり、”手に入れたい”という感覚が強まると、途端にその人と関われるか否か、その人が生きているか否か、
その人が誰と関わっているか……に振り回されることとなり、神ほど安定した存在ではない。
別にその心の支えは何でもいいのだが、現実に寄り添うものであればあるほど、不安定感は増す。たまに仕事を生きがいにする人もいるが、以前職場の先輩から聞いた話で、仕事バリバリできる人がいて、それを生きがいにしていたが、脳卒中で倒れて一部体がまひして全く仕事ができなくなってから、そのまま鬱になった人がいたらしい(鬱になるような人じゃないから信じられないと言っていた)
現実のあらゆるものはいつか終わるし、いつか死ぬ。
だが、二次元推しは、永遠に生きる。
声優さんが死のうと、作品とコンテンツが死のうと、今もう世に出た時点で、
キャラクター自体が死ぬことはない。
わたしの心の中にキャラクターが住んでいれば、それで永遠に残るのである。
そうなればコンテンツが爆死しようが、公式がクソシナリオ連発しようが、
自分にとっての理想の推しを自分の中で生かしておいたままにしておけば、
それは自分にとっての神のような、絶対的に消えない心の支えとなり、背骨となる。
もちろんこれは気持ちの持ちようで、三次元を推しても可能であろうし、逆に二次元を推していてもコンテンツの終わりが推しの終わりと考えていれば、自分の中からたちまち消え失せる。
やはりそこに重要になってくるのは、キャラクターに対する信仰心…いや、
「自分にとってのキャラクターへの解釈」への信ずる力、信仰心なのである。
今僕は芹沢あさひが自由奔放なキャラだと書いた。
それを、いきなり芹沢あさひがプロデューサーとの恋愛に走るシナリオが出たらどうなるか?
そうなったら、今ある自分の中での、芹沢あさひの解釈と照らし合わせて、
「本当にプロデューサーと恋愛をするようなことがありうるか?」ということを綿密に精査する。
そうして、その解釈と違ったのなら公式を無視するし、解釈一致なら受け入れる。
そこには、自分のキャラクター解釈を信じる心がなければ、クソ公式に振り回されることもあるだろうし、逆に公式が神がかっていても、自分が好きなところは実は世間的にキャラのクソ部分と言われているところで、あっさり修正されて涙を呑むかもしれない。
わたしは芹沢あさひの自由奔放さに惹かれた。
ならそれを一生推し続けるだけであり、その後どういう解釈が出ようが、
自分の中の信仰心のみを糧に推していけばよい。
公式は同志ではない。たまたま目指す先が一緒なだけの、別国の兵士なのだ。
今は同じ解釈という同盟軍に所属しているから、公式とはたまたま争いを起こさずに、芹沢あさひの旗を立て、世間に突撃し、いろんな怪文書をまき散らしたりMADを作ったりして芹沢あさひを支持している。
だが、公式は別国だ。どこまでいっても。
いつかは自分の中の信仰心が強まれば強まるほど、公式という名の兵士との考えが合わなくなる時も来るだろう。
そうしたら、公式に従うのか? ひれ伏すのか?
違う。
自分の中の信仰心だけを味方につけ、同盟軍から外れ、一人生き続けるのである。
神の考え方も、根本は一緒だと思っている。
「常に自分の心の中にいるサイキョーのやつ」が、神だというのが私の雑解釈。
それで言えば、”推し”は広義の神ではなかろうか。
自分の中の”推し”――キャラクターの解釈――を信じるモノこそ、救われるのである。
その信じる心が強ければ強いほど、書けもしないシナリオを描きだすし、
絵を描きだすし、布教活動に励み、私の中の神を人々へ宣伝する。
そうしてさらに自分の中の神は確固たるものとなり、自分はより、
心の救われた世界へと飛び立つ。
オタクはよく「推しが神」とか「神絵師」というが、
本当に広義の意味での神が宿っているのである。
つまり、今僕の中にも、「芹沢あさひという推しへの解釈」という神が宿っていて、
それは今後シャニマスが終わろうが、芹沢あさひのシナリオがめちゃくちゃにされようが、信仰心が途切れない限り消えることはないのである。
という理屈を経たんで!!!!!
芹沢あさひは神ってことなんで!!!!!!!!!!
よろしくね!!!!!!!!!!
ここでねえ~~~
めちゃくちゃ早口オタクになるんですが正直芹沢あさひって自由奔放なんだけど腑抜けって感じじゃないんですよ天才的にダンスうまいしボーカルもかっこいいんですよ、それでね、それなんでかというと結局目の前のことにばかり振り回されるからそれでダンスやボーカルも楽しくて延々と練習したりしてるわけですね、本人にとってそれが楽しいからどんどん吸収するんですね、そうやって天才が作り上げられていく、だから目の前で初めて見たダンスを完コピしたりするんすよ、そうやって自由奔放で一見「腑抜けっぽい」ように見えてパフォーマンスになるとカッとかっこいい感じになるんですよ、そのギャップもたまらんのですよね、でね、曲調も「アイドル」って感じのきゃるっとした曲じゃなくてかっこいい奴ばっかなんですよ、だからそれで余計にギャップで死ぬ、それでアイマスがうまいのはね、そこから中の声優さんのライブがあるんすよ、それのクオリティもヤバいんですよ、そうして僕らはライブでゲームの中の「ストレイライト」のすごさを疑似体験できるんですよ、それでやべ~~~となってどんどんハマってく、しかもね、僕最初芹沢あさひだけ好きだったんですけど、芹沢あさひの解像度を上げていくには芹沢あさひ周辺、つまりストレイライトを追いかける必要があるんですよ、そうしたら冬優子ちゃんとあさひの掛け合いがめちゃくちゃよくてね、その流れで冬優子ちゃんも好きになるんですよ、それでそこ二人の喧嘩をうまくなだめてるのかと思いきやあさひちゃんの悪ノリに乗っかり続けたりする愛依ちゃんも可愛いなって好きになるんですよ、それで「あ~これが箱推しというやつか~」という感じで、ストレイライト全体を好きになるんですよ、あのね、ストレイライトのシナリオは全体的にクオリティ高くてね、キャラがシナリオにあまり振り回されてない印象を受けるんですよ、だから僕が好きっていうのもあるのかもね(笑)だから僕すぐストレイライトのCD買ったし、BDも予約しましたよ、あ、君金がないからこれ出来ないと思った?(笑)実はね~そんな君におすすめのCDあるんすよ、THE IDOLM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 01のCDがあるんですよ、ファン感謝祭ってゲーム内でもあるんですけどね、このCD、ファン感謝祭を実際にライブでやった映像BD付きなんですよ、あ~はいはいそんなの高いでしょオタクグッズだしって思うでしょ?思うじゃん?あのね、2800円(笑)やばいでしょ?だからすぐ買いましょ、まずゲームやってそれで芹沢あさひやってほしいの、次に果穂ちゃんね、放クラの。あの子もね、かなり純粋キャラで恋愛とかなさげだからよくてねそれでね
(省略されました。続きを読むにはTwitterをフォローしてください)
おわり。
おまけ
芹沢あさひちゃんすきだからシャニマスやるか・・・
— ばしこ氏 (@wahoo910) 2021年1月30日
いうてハマってからまだ2週間も経ってない
つづき↓
↓感謝祭のBD付CD
文系が化学の怪しさを検証するにはどうすればいいか~次亜塩素酸水~
パナソニック、携帯式の次亜塩素酸除菌スプレー https://t.co/rWdZ6LQxFw pic.twitter.com/45rp8eDiNh
— PC Watch (@pc_watch) 2021年1月12日
TLにこんなものが流れてきた。
僕自身も、以前から「次亜塩素酸水ってそんなにいいものなんだっけ?」となんとなく「次亜塩素酸水=アヤシイ」という考えをふわっと覚えていたので、怪しみながら読んでいたら、案の定コメント欄やリプライ欄は次亜塩素酸水への批判でいっぱいだった。
でもそもそも、次亜塩素酸水って何がアヤシイんじゃ?ということをさっぱり忘れてしまったし、そもそもよくわかっていない。
ただ僕は化学に詳しくない。が、化学に詳しくない人間が調べられる範囲で、何が問題で何がいいのか?ってことを改めて考えてみようと思う。
※注意
ここにある情報はできるだけ信頼できる(=科学的知識の浅い人でも集められる)情報をもとに記事を作成しております(省庁からの告知、国際機関からの情報など)。
国際機関・省庁への批判などの高度なことを行える科学的知識は持ち合わせていません。
あくまでも「科学的知識がない時に、じゃあどうやって調べればいいのか?」という観点でご参考ください。
明らかな化学や現状に認識への誤解・認識違いは、指摘があった場合即座に訂正いたします。
まずはコロナ感染症ならば厚労省のサイトだろう、ということで厚生労働省のサイトへ。
すると…。
あれあれ。厚労省が次亜塩素酸水を勧めている。
いいのかこれ。
でも、ただし「モノ」に対してのようで、手指に使わないでとの記載はある。
ともかく、いったんは厚労省は次亜塩素酸水の使用事態についてはOKの認識のようだ。
あとは、「次亜塩素酸ナトリウム」との違いがしきりに記載されており、
そこを混同しないようにしておかなければならない。
(使用はOKといいつつも、モノに対してだけであり、手指は×)
そしてよくよく見ると同じページにこんなファイルが。
「次亜塩素酸水」を使ってモノのウイルス対策をする場合の注意事項
https://www.meti.go.jp/press/2020/06/20200626013/20200626013-4.pdf
全然使い方イメージ違うやん。
完全にモノに向けて使うものですね。
特に
・できるだけ触れないように
・空間噴霧はしないように
がかなり強調して書かれている。
最後には「空間噴霧より喚起がいいよ」と念押ししているぐらいに。
②消費者庁
消費者庁の反応はどうか。
先の資料を連名で出しているのはもちろんのこと、
以前、確か同様にアヤシイと言われていた「クレベリン」に対して是正を促しており、使用をするなと消費者庁が言ってなかったっけ、と思い出したからだ。
それこそ、空間噴霧というか、空間除菌に対する是正だったと思う。
(2014年3月27日 “二酸化塩素を利用した空間除菌を標ぼうするグッズ販売業者17社に対する景品表示法に基づく措置命令について。 消費者庁のPDFは既にリンク切れで消えていたため日経記事で代用)
で、次亜塩素酸水についての指摘は…。
「次亜塩素酸水」の使い方・販売方法等について(製造・販売事業者の皆さまへ)
令和 2 年 6 月 26 日現在
https://www.meti.go.jp/press/2020/06/20200626013/20200626013-5.pdf
あった。先の経産省・厚労省・消費者庁の連名の次亜塩素酸水の情報出した時と同じ日っぽい。
なるほどなるほど。
濃度と、事前に汚れを撤去することが非常に重要みたい。
そもそも、最初にあげたパナのスプレータイプだと気軽に使えるようなイメージに見えてしまうが、これを読み込む限りでは、どうやらそうではないようだ。
やはり常に強調されているのは、
「空間噴霧をしないこと」である。
次亜塩素酸水を加湿器で広げるなど、そういった利用方法を行わないように気を付ける必要があるとのことである。
しかし一個気になるのが。
『スプレーで手元に吹きかけるような動作は含みません』
ほう。
じゃあそもそも、スプレーとして利用すること自体は問題ないってことなのかな?
ともかく、「次亜塩素酸水ってよくわかんないけど怖いなあ~いいのかなあ~」レベルのアホな僕でもいったん今の資料で分かったことをまとめると
・次亜塩素酸水自体の利用は問題ない
・ただしモノに対してであり、人体や空間に対して有効なものではない
・濃度や条件が厳しく、次亜塩素酸水であればなんでも安易に効く…というものではない
③該当のPanasonic商品は問題ありか
さて、それではある程度マシな知識がついたところで本題に行こう。
該当の商品ページである。
さて、先に紹介した消費者庁のページに、良い情報があったのでそれを参考にしながら確認していこう。
順に確認していこう。
以下がPanasonic当該商品の詳細スペックページである。
次亜塩素酸 携帯除菌スプレー DL-SP006 詳細(スペック) | 除菌商品 | Panasonic
特に重要なのはppm(濃度)だろう。散々指摘がなされている部分だ。
40ppm”以上”らしい。ずいぶんあいまいだな。
ここでさっきの消費者庁からの次亜塩素酸水についての資料に戻る。
うーん?
これでいうと、40ppm以上でも、80ppm以下だと「流水でかけ流す」必要がある。
しかし、今回の該当商品はあくまでもお手軽に外出時にサッと使えることがメインのはずだ。
流水でかけ流すことは想定していないだろう。
そもそも、「40ppm以上」ということは、80ppm以上になることが保証されていない。
一応、そういった指摘も考えてか、実験結果は掲載されている…と言うのと
あれ?????
「次亜塩素酸水」ではないのかあ?????
またかなりややこしくなってきた。
次亜塩素酸 携帯除菌スプレー DL-SP006 取扱説明書 | 除菌商品 | Panasonic
また、取り扱い説明書には濃度の記載があった。
最高200ppmなら、汚れがひどい時にも落ちる濃度ではある。
ただ、そこの幅が大きいのがちょっと気になるところ。
あと説明書には当然ながら、人に向けて用いるなという旨の記載はあった。
今のところ納得いかないのは
・「次亜塩素酸水」とはちょっと違うよ~というならじゃあお前はなんだ
・濃度、ハッキリわからんの大丈夫なん?
と言うところ。
ここで確か最初に「次亜塩素酸水ナトリウムと次亜塩素酸水て違うで~~」ってしつこく言ってた厚労省のページを思い出した。
なーるほど?
phを調整したら次亜塩素酸ナトリウムから作れるらしい。
んで、なのでそれよりもphは8.5で「弱アルカリ性」らしいので(説明書より)、今回のPanasonicの次亜塩素酸は、厳密には「次亜塩素酸水」のように酸性ではないから、ちょっと違うよ~~ってことみたいだ。
そうすると濃度も違うから、さっきの消費者庁の実験も当てはまらない可能性はある。
「本資料で言う「次亜塩素酸水」は次亜塩素酸を含む酸性の溶液のことを言います。」
(先に引用した資料より。「次亜塩素酸水」の使い方・販売方法等について(製造・販売事業者の皆さまへ)
令和 2 年 6 月 26 日現在
https://www.meti.go.jp/press/2020/06/20200626013/20200626013-5.pdf)
うーんやっぱりそうだ。
そもそも、今回の商品は弱アルカリ性なので、次亜塩素酸水の濃度の基準など、先の消費者庁の指標通りには当てはまらない可能性大だ。
また、今回の商品は
・電解質である(生成方法の記載)
・生成後4時間で効果が薄れる(生成後の効果期間、次亜塩素酸水濃度がどれくらい薄まるかの記載)
・phの記載
→それに伴い、次亜塩素酸水ではなく「弱アルカリ性の次亜塩素酸」であることの記載
・人体使用を推奨しない旨の記載
(イメージ画像などに人体使用イメージはなし)
・加湿器での使用などを推奨するイメージなし
と、今のところ問題はないが…。
しかし、やっぱりどうも、「じゃ、Panasonicのは安全だねっ!」と言い切れないモヤモヤは残る。
もやもやの正体はなんだろうか。
・次亜塩素酸水自体がそもそも理解が難しい、世間的に理解されていない
・たくさん資料のある「次亜塩素酸水」でなく、「次亜塩素酸」であり、それに対する除菌効果に関する資料が少なく、検証のしようがない。
結局、今のところ消費者庁からも、もともとの「次亜塩素酸水自体は、アルコールと使用を誤認するから、販売するな」という話は言っておらず、元々次亜塩素酸水自体は大手を振って販売していいものだ。
これを調べる中で消費者庁から行政処分を受けた次亜塩素酸水の情報もあったが、基本的に成分表示を偽っているものがメインであった。
次亜塩素酸水の販売事業者6名及びアルコールスプレーの販売事業者1社に対する景品表示法に基づく措置命令について | 消費者庁
そもそも、最初の厚労省の資料にもあったように(ナトリウムとの違いを記載した資料)、元々次亜塩素酸水自体があまりにも広義すぎるというところはあると思う。
安易に素人が手を出せる商品ではないのでは…。というのをまず思った次第である。
かつ、「次亜塩素酸水」という名前自体が一人歩きしており、ちゃんと「モノにしか使えない」という一般的認知が広がっていないという印象(主観だが)は残る。
そういった面で、文系バカからしたら、そもそも次亜塩素酸水自体に「アヤシイ、怖い」という印象があるんじゃなかろうか。
そして、次亜塩素酸水でさえよくわからんのに、ここに「次亜塩素酸」が出てきたもんだから、なおさらわからーん!となっているのが現状である。
先にも上げたように、私は文系である。
今ある最大限の資料から、わかるように調べた結果、ここで行き詰まった。
僕の主観で言えば、
「ph表示やら、次亜塩素酸濃度の記載やら、濃度低下時間の記載やら、基本に忠実に情報は記載しているから、その姿勢を見るに問題ないとは思うけど」
という感じでとどまるぐらいだろうか。
うーんうーん、でもアルカリ性になっただけで、ヒタヒタに浸さないでよくなるもんなんだろうか…うーんでも独自に実験はしているし…うーん。
Panasonicの姿勢自体は問題ないとは思うんだけど…。
過去にシャープはプラズマクラスター関連で行政処分(不当景品類及び不当表示防止法違反(優良誤認)で再発防止を求める措置命令)は出ているが、Panasonicはこれ(除菌や殺菌関連における優良誤認事例、あるいはその疑い)については今のところ出ていない…と言ったところを見て「信頼に足る」とすべきなのか。
ここまで書いておいて、なんとも煮え切らない回答で申し訳ないが、少なくともこれが文系が至れる情報の限界である。
この情報では、とても「うん、オッケー!」とか「うん、違うわ!」とか無責任な言い切りを記載することはできない。
ただ、化学知識ゼロの人間が記載したものなので、同じく化学知識のない人間には参考になると思われるので、どうか参考にし、この商品が怪しいか?怪しくないか?と断じる上での参考にしてほしい。
少なくとも、一発で「これはアウト!!」と言い切るもんではないかな、と言うところだと思う。
以上!!!!!!!!
「支配の悪魔」マキマのような人は身近に潜んでいる。
(※これはジャンプ12月14日発売号までのネタバレを含みます。
単行本読者はジャンププラスですぐに最新号まで買って読んでからお読みください。
大丈夫、僕も単行本派だったけど、買ったらわりとすぐハマったよ)
今週のジャンプが発売されました。
それを得て、
「お、やはりか…」
と思いました。
何がだよ。
いや、「やはりか…」
と思ったんですよ。支配の悪魔について。
前のブログで多少冷静でない記事を書いちゃいましたが、その理由としては
こういう「支配の悪魔」的な人間って、身近に結構いる気がするんです。
そしてこれは、僕がイメージしたような「実際にいる支配の悪魔的人間」をあくまでもモチーフとして描いているな、と確信に変わりました。
作品を構造的に読むなら、基本的に支配の悪魔に関する考察の仕方としては、支配に関するモノを煮詰めた存在である必要があるため、例えばヒトラーだとか、スターリンだとか、そういう独裁者の文脈を使っていたり…という点が非常に色濃く出るかと思います。
しかし、作中のマキマさんは、どちらかというと一個人に対する支配力の側面が非常に色濃く出ていました。
例えば、アキをコントロールしていたり(おそらく能力を使って、自分のことを好きだと思いこませている)、デンジをコントロールしたり。
あるいは「これは命令です…」と能力を使ったり。
どちらにせよ、圧倒的な力を持っていましたが、その悪魔のアイデンティティを描く上で、そのほとんどが、先に挙げたような、独裁者的「組織的支配」あるいは「組織のリーダー的(演説力や指導力、先導力など)支配」ではなく、非常に「個人的な支配」が目立ったな、という印象でした。
その例をいくつか書いていき、その中で
「個人的な支配ってなあに?」
「それをする人ってどういう人間なの?」
「個人的な支配ってどう対処すればいいの?」
みたいなことを書きつつ、チェンソーマンに対する考察を深めていきます。
(※前回ブログで書いた話と一部被りますが、以前のブログはあまり冷静でなかったので、改めて頭冷やした状態で書きます)
あと、ここにあるのは経験則で書いているため、心理学や社会学の側面の考察は入りませんので、あくまでも「そういう支配的な人間を、見た人がいるんだなあ」とお読みください。
- ◎支配①相手を誘惑することに長けている(※ただしこちらの手出しはない)
- ◎支配②感情を揺さぶることに長けている。
- ◎支配③言葉の呪いのかけ方
- ◎支配的な人間の心理構造
- ◎デンジは支配の悪魔が育たない方法を知っている
◎支配①相手を誘惑することに長けている(※ただしこちらの手出しはない)
基本的にここでいう「マキマ的支配者」(以下「支配者」と略し、逆に独裁者的支配者は「独裁者的支配者」と記述します)は、「手出し」をしません。
悪く言えば、相手との対等な関係を結ぶことが難しいです。
まあ細かい話は後述するとして、「自分が手出しをせずに相手を魅了する」という意味での支配力に長けているのがマキマです。
まずは初めのほうの、このシーン。
ここですが、まず「命令口調」で簡単な命令を聞かせることに成功しています(これはたぶん惚れさせたことによるものが大きいけども、そこからちょっとした命令を聞いてもらうことを繰り返すことで、命令がだんだん難しくなっても通りやすくなってきます)
そして、ここは一見普通の慰めシーンに見えますが、結局最後にある「チェンソーの悪魔と仲良くなりたいだけ(デンジはどうでもいい)」というところを考えてみると少し違った印象でしょう。
まず、デンジはまだファーストキスも初めてでした、この時点で。そのぐらいまだ経験が浅いです。
そうなると、「初めての経験」という、支配には絶好のタイミングがたくさんあるわけです。
人間、初めての経験がその後の経験の影響をかなり大きく受けることが多く、それが悪いものだったとしても、なかなか上書きできるものではありません。
(恋愛関係ないけど、僕は初めて給食で食べたスナックエンドウに虫が入ってて吐いたことで、大人になっても食べた瞬間にえずく。そういうようなやつ。)
だからここのチュッパチャップスのシーンには
1、姫野パイセンからのファーストキスの上書き
2、別の初めての経験を与える
この2つの意味合いがあります。
こうすることで、マキマさんの印象が色濃く残り、結果的に姫野パイセンに童貞奪われることなくとどめることができた。
(※たぶんセックス阻止自体はどっちにも転んでた、全然セックスしてたこともあっただろうけど、仮にセックスしていても、姫野パイセンとはセックスのイメージしか付かず、他方でマキマさんはきれいな初恋のイメージが残るので、結果的にマキマさんのところに戻るだろう。そこまでは考えてはいなかっただろうけど、初めての経験を抑えておくだけで便利に相手を支配できるということです。)
そういうやり口にところに長けているのが支配の悪魔、マキマさんです。
こういうやり口をやる「支配の悪魔的人間」はわりかしいるので注意が必要です。
(こういうやり口をやってくるわりに、見ているのは本人ではなく、その本人に付帯された称号だとか地位とか金とか、あと存在とかしかみていないような、そういう人間のことを支配の悪魔的人間だと思っている)
ざっくりとした例を挙げると、童貞狙いのメンヘラとか10代前後だといますが(僕は昔引っかかった)、あれは結局支配しやすいというか、支配というより依存に近いですね。
依存してくれやすいから、経験の少ない人間を狙っている、それを感覚的にわかっていて、共依存するタイプの人間には何人かあったことがあります。
◎支配②感情を揺さぶることに長けている。
支配の手法はいくらでもあります。
「感情を揺さぶる」というのは最たる方法で、かつ簡単です。
これはどういうことかと言うと、「一つの感情にベクトルを向ける」ものではありません。例えば、「こいつを悲しい気持ちにさせたい~ウォ~!」と悲しい気持ちにさせるやり方…ではない!!ということです。それはむしろ、大衆を扇動するヒトラーとか向きでしょうか。
これは大衆に対してであれば成功率が高いですが、個人に対しては成功率が低いです。感情なんていくら支配しても読み切れないところがたくさん出てくるので。
だからどうするかというと「感情のジェットコースターを作り判断力を鈍らせる」ということをやるのです。
マキマさんが犬とめっちゃじゃれあっている話がありましたね。
あそこではデンジも読者も「こんなマキマさんなら…信用してもいいかも…?」と思いました。
その理由としては、そこまでマキマさんは徹底してスキをあまり見せない(映画のシーンくらいかな?ちょっとしたスキとしては)人間だったため、あそこまで開放的なマキマさんが描かれることがなかったからです。
なので、より人間らしい一側面を見せたことで、デンジも「あれ、なんかマキマさん変だなと思ってたけど、やっぱりいい人なんじゃん…?」と思ったことでしょう。
それこそが支配者の策略です。
ここでは、先に挙げたように「一つの感情に確実に持っていく」ことが目的ではありません。成功率が低いからです。ここで「やっぱりいい人じゃん!けど、でもまだ…」という「でもまだ…」が残ってしまっている可能性は否めません。
でも、ここで「でもまだ…」と思われていても、「感情のジェットコースター」を起こすには十分です。
まず、アキの件でデンジは混乱しています。
次に、犬の話の中で癒して落ち着かせます。
そうしてまた、落ち着いたところにパワーを殺します。
これで感情のジェットコースターは完成です。
そこに論理破綻した話を叩き込みます。
デンジが自分の父親を殺した話をしていましたね。マキマが。
あれは完全に論理破綻した話です。
デビルハンターとしてあれだけ人が死んでいるし、マキマも普通にコマとしていくらか人を使っているので、今更父親(しかも正当あるいは過剰防衛)を殺したぐらいでどうと言われる組織ではないですし、かつ、パワーの件もアキの件も、全部マキマが仕込んだことです。
しかし、アキが死んで、アイス吐くくらい動揺しているところに、マキマさんからの癒しがすごく入って、ほっとしたところに、またパワーの死というデカい動揺がやってくる。そんな状態で「お前が悪い」と言われたら、そう思わざるを得ません。
この「感情のジェットコースター」は、無理やりに情緒不安定な状態を作り出す手法です。
動揺しているところに罪悪感を起こさせてコントロールするのは支配的人間の常套手段です。
だから、こういう支配的人間は「過度に怒鳴る」だとか、極端な話を持ち出したり大事にする(自分はこういうことをされたから死ぬ、とか、死にたくなった、とか、お前のせいで仕事を辞めざるを得なくなった、とか)ことで、相手の感情を上下に揺さぶり、こちらの判断力を奪ったうえで、こちらに何かしらの判断を求めます。
これはパワハラなどでも使われている手法だと思います。
例えば、まず怒鳴る→動揺する→その状態で頭を使う判断を求めてくる
(お前なんでこんなことしたんだ!!(怒鳴る)→怒鳴りラッシュの後、冷静に「これはなぜ起こったか説明できるか?」→動揺しているため説明の整理ができない→「なんで答えられないんだ!」(怒鳴りラッシュ)→以降繰り返し)
そこで判断してしまうと負けです。徹底して避けましょう。
そして、ここのシーンはもう一つ重要なコマがあります。
◎支配③言葉の呪いのかけ方
このシーンです。
何がポイントかと言うと、「お前は悪いヤツだ」ではなく「お前は悪いヤツだよね?」と言い、デンジからの「うん」を引き出していることです。
あくまでも最終合意を相手から引き出すことで、デンジは自分でこの考えに行きついたと勘違いしてしまいます。
あるいは、勘違いまでしなくても、呪いとしてずっと引きずることになります。
よく、相手から怒られたり嫌なことを言われたことがずっとリフレインする…なんて言われたりしますが、それならまだマシで、こういう「自分で発言したセリフ」はコントロールされていても客観視できず、全く違和感なく「自分でこう思った」と錯覚したまま、自分の思考の中に違和感なくするりと滑り込んだままになるのです。
ここに込められているのは、あくまでも「相手が自分で選択した」とすることで、少しだけこちらの支配の罪悪感を和らげ、責任転嫁する意味合いもあります。
細かいですが、支配的人間の手法と言うのは、こういった細かい部分に宿っており、このような方法で相手より上の立場をとる/取らざるを得ない人間はいるのです。
それでしかコミュニケーションの方法を知らない。
だから、逆に言えば悲しい存在であるともいえます。
こちらからの手出しを一切しない、こちらから相手に良く干渉することはせず、あくまでも「向こうが動いた」(こちらは何もしていない)とさも言わんばかりの状況を作り出す。
通常人間関係は対等にお互いがお互いの裁量で納得いく形で手出し(労力とか、気遣いとか、その他もろもろ、自分の何かしらのエネルギーを相手につぎ込むこと)がトントンにならないと、良い人間関係は生まれず、一方だけが手出しの関係性は少々出している側がキツイものがあります。
なので、こういう支配的人間は、まともな人間関係を築けず、かなり孤立しており、ゆえに余計に過激な発言や過剰な怒鳴りにシフトしてしまうというスパイラルに陥っているのかもしれません。
基本的に僕が見た範囲では、支配的人間とは、別にヒトラーのような能力を持った人間…というよりは、「まともにコミュニケーションが取れないゆえに支配に走るしかない人間」というような印象が強いです。その中でその支配力を客観的に理解した人間は、ヒトラーとまではいかずとも、マキマのようになるでしょう。
支配④能力自体の在り方「程度が低い”と思った”人間を支配できる」
これはかなりマキマを理解する上で大きなポイントでした。
ここで「自分より程度が低いと”思う”ものを支配できる」という”思う”が大きなポイントなのです。
これは事実、独裁者含め支配者に共通のポイントだと思います。
支配者や独裁者になるコツは、自分が最強で一番程度が高く、他の愚民どもは全員程度が低いと思っておくことです。
そうでもしないと、独裁なんてできやしない。大学教授とか研究者が「あなたのこの独裁行為はダメで~」と真面目に指摘が入ったときにいちいち「これは一理あるな…」と思っていたら独裁が一向に進まない。その指摘が、あっていようがまちがっていようが。
その「自分は最強」という強い思い込みがあるから、先の②の項目であげたような、論理破綻した話を、堂々と自信を持って話せるのです。
そういう意味では、支配的な人間というのは、基本、自分の世界に完全に閉じてしまっています。
自分の世界の思い込みの世界に生きており、なので「程度が実際に上の相手ですら、自分より程度が下だと思い込み支配する」ということが可能になってしまうのです。
◎支配的な人間の心理構造
だいだいこれで、支配的な、「支配の悪魔」的な人間がどういう人間かイメージできたでしょうか。
・こちらが手出し(損益や、労力)をせずに誘惑する手法を心得ている
(そのポイントも把握している)
・相手を感情のジェットコースターに載せてコントロールする
・自分が一番という思い込みが強く、自分の世界に閉じている
・相手のごくごく一部や表面的な部分しか見ていない
(ゆえに支配できる)
こんなところです。
上二つは能力的な部分ですが、「自分が一番と言う思い込みが強く、自分の世界に閉じている」というのは、支配的な人間の心理構造への理解を深める重要なファクターです。
自分が一番と思い込んでいる、あるいは「思い込まざるを得ない」という人も多いです。
例えば、田舎の典型的昭和男性とかだと、そういう傾向の人はまあまあ見かけるかもしれません。「田舎」「昭和」と括ると偏見臭いですが、例えば、能力もないのに威張るおじさん、職場にいませんか。おそらく、昔ながらの男性は「男は強くあれ」ということを異様に求められ、弱音を吐く雰囲気は一切ありません。
ただ、どんなおじさんであっても、だいたい能力がなければ「俺能力ねえなあ」と、さすがに30~40歳ぐらいで気づきます。
しかし、「強くあれ」という要請の中でなかなか「俺無能なんすよ…」と開き直って言うことはできず、結果的に威圧や威厳で、相手を動物のごとく威嚇することでしか、自分を強く見せる手法がないのです。そういう、能力がないところに気づいていない/あるいは見て見ぬふりをしている、つまり自分の世界に閉じこもっている人はまあまあいるとは思います。
では、なぜそういった支配的人間は駆逐されないのか。
支配的人間を取り囲む存在がいるからです。
こういう支配的人間には「素直な人間」か「察する人間」がハマりやすく、逆に「空気が読めない人間」「いつでも冷静に理詰めできる人間」は全くハマりません。
結局、先にも挙げたように、論理破綻してでも支配しようとするので、論理よりも威圧や威勢に負ける人、あるいは感情のジェットコースターに載せられることによる動揺が大きい人だと支配されやすいですが、そういったものに揺さぶられず、冷静に理詰めできれば対処できますし、逆に空気を読まず自己中心的に発言できる人は、こういう支配的人間の手には染まりません。なぜなら、「この人は怒っているから鎮めなきゃ…!」という空気感をガン無視して「いや怒鳴られんの不快なんだけど」を直球で投げられるからです。
そういう意味ではデンジ君はまだ幼かったので「素直な人間」に該当しますね。
また、先ほど挙げた特徴の一つ「自分の世界に閉じている」に関してですが。
この辺りですね。相手が本物のチェンソーマン(ポチタ)なのに、全然違う人間だと思っているし、そのポチタが望んでいないのに、勝手に私"達"と括っている。
完全に自分の世界での話しかしておらず、現実一切ガン無視で話が進んでいる。
だからマキマは孤独なんだと思います。
自分の世界を押し付ける人には、奴隷しかやってきません。
マキマには、まともな人間がよりついてきていないのです。
結局、こうやって自分の世界に入って抜け出せないのも、相手の表面上や浅いところだけ捉えて、それしか見えてないし、その表面上のところにすごい自分補正をかけてみているから、なんにも気づかないんだと思います。
だって、おかしくない?
嫌いなデンジのことがわからないならまだしも、
これだけ「ファン」「私たちの邪魔をしないで」とかまで言っているのに、
チェンソーマン(ポチタ)に全く気付かないって。
結局、嫌いな人間、どうでもいい人間のみならず、好きな人間ですら、表面上の存在でしか捉えていない。
だから支配できるのです、チェンソーマンを。無慈悲に。
◎デンジは支配の悪魔が育たない方法を知っている
支配の悪魔が育たない方法は簡単です。
片方が支配文脈に乗らないことです。
結局、支配的な文脈でお話をされる方に、支配されるがままになったところで、それは支配を加速させるだけになります。
だからこそ、支配的な人間には、それが全く聞かない人間と接するのが、一番お互いにいい方法であり、支配的な人間も、支配をするクセを脱する機会にもなります。
だから、一方的に相手を愛し、表面的なもの(すがたかたちや、相手の威圧や威嚇といった、表向きのつよい感情)を撤廃し、本質を見ようとするというのは、
支配者にとってかなり重要だと思います。
デンジの愛は相当なものです。
何故なら、マキマさんを「愛をこめて」解体したのですから。
よくマキマさんが調理され食べられるシーンが引用されますが、
それ以上に「マキマさんってどうやって解体したの?」問題が発生するはずです。
この問題の解決方法は、「本気で取り込むつもりでマキマさんを愛を持って解体する」ことです。
狂ってませんか?
解体する間、一度も「攻撃」としてデンジが認識してないってことでしょ???
ヤバすぎでしょ。
狂いながら愛していたからこそ成り立った行動です。
こういう愛がある行動は、支配者を支配から脱却させます。
それはなんでかというと、支配者が見せているのはあくまでも表面的な自分であり、それ以外の部分というのは、ある意味支配者自身も目をそらし隠している部分なので、本質をスパッと見抜き、支配に関係なく動く相手に心揺さぶられます。
また、先に挙げたように、支配者は支配ゆえに孤独です。
「マキマはママ」という作者の発言があったそうですが、僕は逆にも解釈しています。
たぶん作品が終わる直前まではマキマはママでした。しかし、この大きなデンジの愛によって、最終話ではむしろデンジがママとなり、子供になった支配の悪魔を優しく包み込むかたちで終わったからです。
自炊を覚え、パワーに優しくしたりする中で、デンジは「おっぱい揉ませろ~」という状態から、愛を与える存在に変わったのです。
だから、ポチタがいっていた「支配の悪魔は孤独で、支配することでしか関係が築けなくて…」という話はすべて今まで話してきた話のまとめです。
僕は今までかいたことずっと考えていたのですが、ポチタのせりふでそれが答えだとわかったのでブログに書きました。
さて、だいたい支配の悪魔的存在がどのような存在かわかったでしょうか
こういう人間は現状いまはただ牙をむいてないだけで、いったんそのモードになるとがっつり支配してくる人もたくさんいます。
なので、支配に飲まれないように。
支配に乗っからないように。
自分はこれは福岡ではこういう人間が多い気がするな(支配的人間が)…と思ったりしているので、もし似たような実例や、支配的人間の別地域での例を、この文章を読んで思い浮かんだらコメントしていってください。
よろしく。
マキマの支配についての解釈と、マキマ死ねという恨み節(ジャンプ本誌ネタバレ)
マキマキモイ、死ね。
今2時間かけて3000文字ぐらい書いたメモが全部消えたが、それでも許せんと
思えるくらい、マジでノータイムで書き直そうと思って今書き直しているくらい、マジでマキマが嫌いで死んでほしいです。
その怒りの丈をここに書きます。
なんでそんなにマキマが嫌いか。基本的には「残酷なことして…死ねよ!」って怨みとかじゃないです。
「支配」がクソクソクソキモイからです。
こいつは完全なる支配の悪魔、ヒトラーと同類、だからこそ嫌悪感が出るのだと思う、死ね。
何点かあるよ嫌悪感がでるところ
- ①かわいい面/スキがある面を最悪のタイミングで出してくるから
- ②言葉の呪いをかけてくるから(普通の生活送っていいはずがないよね?のシーン)
- ③陰キャにありがちな「程度が低い”と思っている”人間を支配できる」能力だから(思っている…がめちゃくちゃ重要)
- ④これでもオタクが許しそうな感じがしてしまうから
- おわりに:マキマに隙を見せるな
①かわいい面/スキがある面を最悪のタイミングで出してくるから
これ完全に「わかって」ましたよね。
なーにが「こんな一面みたら許せてしまう…」だよTLのオタク、
典型的な支配文脈のやり手だよバカヤロウ
以下Wikipedia「ナチスのプロバガンダ」より引用
一方で同時にヒトラーの神格化や過剰な称揚を、「ヒトラーも君と僕と同じ人間だ」と個人的側面を提示して抑えようとする試みがあった。ハインリヒ・ホフマンは例えば1932年にパンフレット『知られざるヒトラー (Hitler wie ihn keiner kennt)』を出版し、そこでは「指導者(総統)」は子供好き、熱心な狩猟家、愛犬家、車好きとして紹介された。牧歌的なベルクホーフがこうした写真の背景を務めた。
愛犬家としてほほえましく映すのはまさにそのまんま。作者は意識していると思う、タイミングが完璧すぎる。
だって前にアキを殺したというか、アキがあんななったのはマキマさんが悪いのでは…
しかもアキをコントロールしてた…天使も…マキマさん悪い人じゃね…?
という疑念と、読者(デンジも同じ立ち位置にいる)の不安、
「マキマさんを信じていいのか?本当は怖い人では?」と思っているところに
いい人というか、人間的な一面を突如見せてくる。
それで読者(デンジ)が安心したところにパワーを殺す。
そこで判断力を失わせている。
この順序が逆であれば、読者もデンジも、「パワー殺した!?ゆるせん!!」と
”マキマは信じてはいけない”に完全に降り切れていたと思うが、
前の犬の描写は、情緒を揺らがせるための手法である。
情緒を激しく揺さぶり、判断力をにぶらせ、従うしかない状況に陥らせている。死ね。
②言葉の呪いをかけてくるから(普通の生活送っていいはずがないよね?のシーン)
ここも、結局「なんだこのクソ女、勝手に決めつけ押し付けてきやがってしね」となるが
大きなポイントが「お前は普通の生活を送ってはいけない」という言い方ではなく
「君は、普通の生活を送っていいはずがないよね?」「はい…」
と、最後にデンジからの「はい…」を引き出してくるところにある。
はいここクソ支配ポイント。
こうやって相手からセリフを言わせるのは支配ポイントです。
自分で選んだ/自分で気づいたと錯覚してしまうからです。
この手の言葉は、かなり染み付くんですよ。かなり呪いとして効果的なんですよ。
言葉の呪いとして確かに同じセリフを支配者側から繰り返し言うことも有効ではあるのですが、それ以上に「自分で言った」というところにはその何倍もの効果があります。
特にデンジのような頭の悪く、意思の弱い人間には「自分の考えはこうだったのか…?」と思わせるほどの力があります。
この呪いはそうそう消えません。
僕も相当されましたので恨んでいます。死ね。
この呪いって簡単に消えるもんじゃないんですよ。
だから使うやつは犬飼ってようがかわいかろうがチェのファンだろうが、知らないんですよ、問答無用で死んでもらわないと、呪いの被害者が増えるんですよ、死ね。
③陰キャにありがちな「程度が低い”と思っている”人間を支配できる」能力だから(思っている…がめちゃくちゃ重要)
これです。
これほんとパワハラ・DV・毒親などの精神に通じる、クソ陰キャなんちゃって支配マンだと思っています、陰キャキモイんだよ死ね。
どういうことかというと、単純に自分より能力の低い人間はコントロールしやすいですよね。というか、それは別に悪い意味ではなく、こちら側が能力がある以上、仕事とかする時はコントロールしてあげないといけないですよね。
ただ、陰キャは基本的にそれができません。なぜでしょうか。
それはコミュニケーションがうまく取れないからです。
バカな無能マンだが態度が強い奴には逆らえないからです。
そういう下地があると、成長して陰キャ脱出したように見えても、根っこに陰キャが残り、「悪い陰キャ」として成長します。
そうすると、「バカで態度だけでかい無能マン」の真似をし始めます。
要は能力以外のところで、態度や言動の仕方でコントロールをするわけです。
僕の職場にもいましたよ。
僕に直接言えないからって、僕以外の人間通じで僕のミスを指摘し、一応こちらから
最低限の儀礼として謝罪の電話してあげたら
大したミスでもなかったうえに、そのミスがどう迷惑をかけたか/どういう改善が今後必要かといった建設的な話題は一切なく「はあ~…いってもわからんからもういいよ」とこちらがほとんど何も言っていないのに電話切ったクソ陰キャがいました。
見てるか? 許さんからなお前。
まあそういう陰キャしぐさなわけです。
DVマンや毒親も、基本的には「陰キャのねっこ」がどこかにあると思います。
自分がうまくコミュニケーションをとれなかった/自分も態度で支配されたという想いがあり、その復讐を他人にし始める。
まあ、マキマはそういう感じではないでしょうが、少なくとも「能力はチェンソーマンに負けているのに、自分が程度が上だと思っている」とか、ファンだとかいいつつ支配しようとしているところ辺りになんか陰キャしぐさを感じます。そういうよくない陰キャ、悪い陰キャしぐさ。
④これでもオタクが許しそうな感じがしてしまうから
これたぶん③が影響しています。
許すな。
そもそもマキマは陰キャなんだから、陰キャの支配は得意中の得意だからな。
そこ絶対わかってるからなマキマ。
許すな。さもなければ死ぬ。
だから僕一人でも徹底的に死ぬほど拒否し続けます。
おわりに:マキマに隙を見せるな
この手の人間に一切スキを見せるな。
許すな
変なプラスの感情を抱くな
ただし冷静に見続けろ
この手の人間には、冷静さを欠いた視点を抱いた時点で終わりです。
なので僕も一見冷静さを欠いているように見えますが、
これは正直「マキマを肯定する人間」の想いがまだ消え切っていない
それの脅威度を見計らって強く拒絶する言葉を発信しているので
そこはバランスを取っています。
逆にマキマへの怒りでしか埋まっていないタイムラインになれば、その際は警戒します。支配者において、そういった感情の揺れ動きは必ず織り込み済みのはずだからです。
織り込んでいないはずがない。
なので逆に「マキマの一切の情報に触れるな!しぬぞ!」
となっても危険です、必ずその流れを織り込んでいます。
だからこの手の人間には、結局は均衡を保つのが一番です。
そのうえで、いつも中立の人間だけでは、圧倒的な逆方向の力を留められません。
なので今回はマキマに対する怒りで埋めました。
マキマはさっさと死ぬべきです。
支配文脈を使う人間は死ぬべきです。
最後にフォローをしておくと、マキマが死ぬほど嫌いなことに全くもって間違いはありません。しかしそれは作品への否定ではありません。
むしろ、「支配の悪魔」であるがゆえに、
そういった支配者への拒否感は必ず人々の中にあるはずです
(ヒトラーへの嫌悪感など)
それを思い起こさせるほど、支配の悪魔として完璧に
描ききったタツキ先生、これは本当に見事な手腕で、
タツキ先生はマジで「読者を支配する悪魔」だと思います。
なのでメタ的にいうと、ここで「マキマキモイ!!氏ね!!チェンソーマンもう見たくもない!!!」とまで考えがいってしまうと、おそらくそれはタツキ先生の支配にハマってしまっていると思うので注意をしてください。
以上、マキマへの恨み節でした。
企業アカウントの今後を憂う~ATSUGI炎上から見るTwitter運用~
お久しぶりにブログを更新しました。
実はここのところしばらくブログにも、ブログに書くようなネタにも触れていませんでした。
というのも、基本的にTwitterの炎上に触れることが多いブログでした。ただ、Twitterの炎上というものがほとんどが「ただ中高生が騒いでるだけじゃね?」「それを叩いて喜んでるイキり大人がいるだけじゃね?」という構造にほんわり気づいて「取り上げる意味ねーな」と思ったからでした。
ただ、近年の流れがどーもあまりよろしくない。
今回取り上げるのは、タイツメーカー「ATSUGI」のTwitterアカウントになります。
\11月2日は #タイツの日/
— アツギ【公式】 (@ATSUGI_jp) 2020年11月1日
なんと…本日のために✨
様々なイラストレーターさんにアツギの商品を着用した女の子を描いて頂きました!✨
タイツの日、1日を通して
朝・昼・夜のシチュエーションで女性の脚もとを彩るタイツ・ストッキングのイラストをお楽しみください!#ラブタイツ #タイツの日 pic.twitter.com/DKVfC5yzJ4
(消えそうなのでスクショも貼っておく)
アツギの商品を着用した女の子のイラストをイラストレーターによって描いていただく…という企画だったのだが…。
これががっつり炎上した。なんでかー。そこをまとめつつ、今後の企業アカウントがどうふるまっていけばよいかを触れていく。
先に僕が考えている「本企画批判派」の考えの大前提を上げておく。
①今回の批判の対象は「企業アカウントの行動」であり、イラストや、イラストレーターではない
※ついては重要な要素だと思うのですが特定のイラストについてここでは触れません。
②イラスト自体の批判ではないので、当然イラストは存在していてよい。
③快/不快でイラストの表現規制をしてはいけないが、消費行動は快/不快により左右される
この大前提を頭に置きながら読んでいってほしい。
※逆にこれに当てはまらない、例えば「イラストレーターはゴミ!!!」「こんなイラストあるから馬鹿が騒ぐんだ!!イラストを規制しろ!!」と言っている人々は対象にならず、僕の考えている「批判派」には含めていません。そういう人々はまあ騒いでろって感じ。
①炎上の中身
まずどういった炎上か触れていく。
最初に11月2日にATSUGI公式Twitterが冒頭に触れたツイートを行い、
事前に企画されていたのだろう、次々とイラストレーターがタイツを履いた女の子のイラストをアップロードしていった。
まあ有名なイラストレーターも多く、それなりにリツイートされたのだけれども…。
性的搾取
性的消費
タイツの件
ATSUGI
と、トレンド入りすることに。
(※11月3日10:28時点のトレンド)
主な批判として、女性側から批判が上がり、それに対してイラストのファンや表現規制反対派から反論が上がっている。
否定的な派閥からは「タイツメーカーが男性から見られる目的のイラストを上げるのはちょっと…」という声が上がり、逆に肯定的(否定的な論調への批判)な派閥からは「気にしすぎ」の声が上がる。
まぁこのツイを企業公式アカウントでRTしてる時点でお察しなんじゃない…#ラブタイツ#ATSUGI pic.twitter.com/ARjLJZ71bN
— ♥祭ちゃん♥ (@akirachan_clang) 2020年11月2日
#ラブタイツ というPRの矢印が、「タイツ履いてる女の子を見るのが好きな人」に向かっていて、気持ち悪い。 #ATSUGI
— ぼん子-0.3kg🏳️🌈 (@secret_bombmal) 2020年11月2日
タイツ会社 #ATSUGI がイラストレーターさんにタイツを履いた女の子のイラストを依頼して #ラブタイツ というハッシュタグでアピールしてるけど、見てて辛いものがある…
— へるす (@health__19) 2020年11月2日
太ももや内股に視線がいくイラストを見てタイツ買いたくなる気持ちは湧かない…
イラストが可愛くてもタイツ買いたくはならない
それに対する批判↓
いつもの。まーた性的消費とか言ってるのか
— 大田区議会議員 おぎの稔(荻野稔)議員系Vtuber🏭✈️ (@ogino_otaku) 2020年11月2日
タイツメーカーのアツギがイラストレーターよむさんとのコラボイラストを公開→女性とフェミから「タイツを履く女性を性的消費している」と批判されてしまう - Togetter https://t.co/LFPnmDKOf5 @togetter_jpより
ここでずれているのが、僕が大前提としている批判派への反論・批判はなく、どちらかというと「表現規制」に対する反論が多く見受けられる点である。
正直、この手の案件は「炎上」というからややこしいのであって、どちらかというと「不評」なだけである。
タイツメーカーは当然、女性が多く購入する者である(男性購買者を否定しないが、大半は女性だろう)。当然、Twitterをフォローしているのも女性が多いだろう。
そういう女性たちから「不評」を買っている、と言うのが現状である。
これは例えば、一つのアニメ作品がここにあったとして、それに対して「つまらん」と言っている(=ただの感想)だけで、別にこれを製作会社が無視するのは構わないし、ファンが「つまらなくないだろう!!」と怒るのも自由だし、「つまらん」と言っている層に黙ってもらうこともできる。
つまり別に「これは性的消費ではない!!」とおぎの議員などが主張し、それを通してもらってさっぱり構わないし、ここで性的消費であろうがどうであろうが、別に表現規制されなくても、本企画批判派としてはどーでもいいし知ったこっちゃないのである。
ただ、それは「企業活動としてそれでいいのか?」という問題が浮上するわけである。
たびたび重ねて言うが、本件、イラストレーターが悪いわけでも、イラストが悪いわけでもないので、別段イラストはいいもんだし、そういうフェチも別にあるじゃん?よくね?ってとこなのだ。
イラスト自体の表現規制の問題ではなく、消費者側が「買う気起きねえ」と言っているだけなので、表現規制の問題はここでは触れる必要性がない。
他にも例を挙げると、僕はあるアニメが好きだったが、公式がやたらめったら作品内のキャラクター同士のBL推しをしすぎたことで見なくなってしまった。それで僕が「BL推しはちょっと…」という意見を発信するとする。別にこれは「あらゆるところでBLをやめろ!!」「BLは不快なモノ!!規制しろ!!」というお話ではなく、「単純に消費者として消費する気起きないよ」という意見なのである。
快/不快で「表現規制」はしてはいけないが、購買を決定するのは快/不快なのである。
極端に言えば、本件を通じて「別にTwitterで騒いでる人がおっても購買に影響ありませんわ」と企業が判断するならそれでいいのである。企業活動と言うのはそういうものである。
しかし、そうではないと僕は判断したのでこういった記事を書いているのである。
というわけで、別に表現規制うんぬんはどうでもいいので企業活動の一面として切り取っていく。
購買に影響があるかどうか…という観点で切り取っていく。
②企業活動としてどうか?
・イメージ戦略の観点
まず、イメージ戦略として問題があるかどうかについてである。
ATSUGIのイメージ戦略として合っているかどうか。
Twitterで拝見した意見で一番しっくり来たのが「これがそもそもセクシーランジェリーのアカウントがいうならまだ合っている」という意見だった。
そもそも、女性は男性に見せる目的でタイツを着用していないので、男性向けに魅せるようなイラスト自体がブランディングに合致しているかどうかで言うと、おそらく合っていないだろう。
アツギの企業HPである。
そもそも、通常のストッキング・タイツを扱っている企業であり、「美しく快適なレッグウェアを提供していきたい」という記載がトップに来ている。
これが別に「男性へ美しくみられるためのストッキングへ…」という企業理念やイメージ戦略を主軸としている場合は、今回のような批判は無視しても構わないと考える。
全体的に見るに、あくまでも主軸は「男性から見られるものとしてのタイツ・ストッキング」ではなく「女性自身が着用するものとしてのタイツ・ストッキング」を明確に主軸に置いている(快適性などにも触れているし)。
そういった観点で見ると、マーケティング戦略として「女性を主軸に置いたイラスト」を今回の企画で取り上げるのであれば、イメージに合致すると思われる。
アツギの件、イラストレーターにタイツを履いた女性のイラストを発注するとして、たとえばこういう系の人にお願いしてくれれば良いものを...好みかどうかはあってもエロ消費される不快感はないし顧客の方を向いているのに... pic.twitter.com/zEyO1OF9XP
— なつみ (@waiteatpaint) 2020年11月2日
あくまでも本企画では、「男性から見られる」ということが主軸にあったイラストが多く見受けられ、特にあからさまなイラスト(パンツが見えそうなエロティックなもの、男性を意識し、パンツを見せようとしているイラスト)や、そういったイラストを描く人が参加したことで、特に消費者からは「男性から見られることを主軸に置いているようで、不快である」という意見が多く出た。 (※当該イラストは既に消えているらしい)
実際に男性ファンから「エロいw」といったリプライも数多く飛んできていたので、「男性から見られる」という意識をした宣伝であれば成功であろう。
だがそれは企業のブランドイメージと合致していない。
また、それ以外にも、「快適性」を訴えかけているのであれば、モデルさんに実際に利用してもらってその快適性を訴える…という方向でもいいわけだ。
Twitterのマーケティングを考えるに、何も今回のように二次元イラストの流行りに訴えかけなくても、「このタイツめちゃくちゃ履き心地いい!!!」という方向でバズって取り上げられることもよく起こりうるので、それで言うと機能性・快適性に主軸を置いた企画を取り上げるほうが、企業のイメージとしても合致していると思うのだが…。
【本日から!】新ジャンル “柄、じゃない?”ストッキング デビュー!!
— アツギ【公式】 (@ATSUGI_jp) 2018年3月20日
フォロー&RTで毎日100名様にストッキング『ATSUGI THE LEG BAR』が1足当たるチャンス!! https://t.co/TJ3oXIDXVS#ATSUGI_THE_LEG_BAR #プレーンライクストッキング #アツギpic.twitter.com/wiy89YD2UG
快適性…ではないが、実際に2年ほど前にATSUGIが、モデルである最上もがとコラボしている宣伝ツイートが過去に7000RTと伸びている。
この方針で問題ないと思うのだが…。
考え得るハナシとして、もちろんだがモデルを使ったイメージ戦略と言うのは非常に金がかかるので、予算的な話で通りやすかったのもあるのかもしれない。
・企業規模から考えた、Twitter運用に対する批判
Twitterのマーケティングで大きく勘違いしがちなのが、この「リツイートの数」である。当然、企業がツイートを多くリツイートしてもらい、Twitterのトレンドに入り、人気を呼ぶことはよいことだろう。宣伝としてはばっちりである。
ただ、一つ勘違いしないでいただきたいのが、「リツイートの中身」である。
リツイートをたくさんされたからと言って、それが必ずしもよいものばかりではないということである。
本企画、ただただ「リツイート数を伸ばす」ということだけに着眼した場合、大成功な企画だろう。最初のツイートは2800RT、そのほかイラストレーターが上げたイラストは、企業のタグを入れた状態で1万RT~5000RTと大きく伸びている。
単純に「#ラブタイツ」「#ATSUGI」という名前を広げる…ということに重きを置くなら成功である。
しかし、ここでいう「リツイートの中身」は、先に挙げたような、ブランドイメージと違う「男性が見るものとしてのタイツ」を奨励する人々のリツイートなのである。
(※何度も言うが、これは性的嗜好に対する批判ではなく、ブランドイメージとの相違の批判である)
そこが多少のリスクを承知の上で、全く無名のメーカーが「ブランドイメージと違っても、ともかく名前を広げよう」と血迷ったのであればまだわからなくもないが、最上もがとコラボできる財力があってそれはないだろう…と思う。
それで言うと、ATSUGIは「リツイートの中身を気にせずにともかく伸ばせ」という状況ではなく、もう一つ段階を超えた「リツイートの質もよい宣伝ツイートを目指す」という状況に向かっていると思うので、なぜ男性目線の宣伝に手が伸びたのかがイマイチわからない。
やはりそこには、「なんだかTwitter上でバズることが、企業アカウントとしてウケるらしいぞ!」というざっくりとした上層部の理解と、Twitterノリがわからないゆえに「わかる人に一任するしかない状況」が最悪に噛み合うことになっているんじゃないだろうか…。
上層部「なんかTwitterで人気になるとニュースにもなるらしいなあ…」
Twitter担当「私Twitter長くやってますが、こうやると絶対ウケますよ!」
上層部「なるほど! よくわからんがバズるならヨシ!」
じゃないけども。
加えて、近年の企業アカウントを見るに、どうもそこを勘違いしている人が多く、企業アカウント同士でなれ合ったりしゃべったり、Twitterノリに合わせることばかりに主軸を置いている企業アカウントも存在する。
もちろん、距離が近いことはよいことだが、もう時代遅れなのである。
それ(なれ合いやTwitterノリ)は、「企業アカウントは公式情報を発信する者であり、なれ合ったり、Twitterノリにノッてくることはあり得ない」という価値観の状態から、シャープやタニタ、NHKなどが発信したことで話題になったからであり、そんな時代はとっくの昔に過ぎ去っている。
そこを雑な理解をし、「企業アカウントをさも個人アカウントのように気軽に話しかける存在にするといいらしいぞ」ということになると、今回のATSUGIのような、似たようなことが起こりかねない。
もちろん企画自体は事前に考えられたものだろうが、明らかに担当者側の裁量が大きくなっている印象があり、Twitterのノリに合わせて発信している印象がある。
最近タカラトミーも話題になったが、これも結局はブランドイメージをほったらかしにして、Twitterノリにあまりにも近づきすぎたゆえの失敗である。
基本的にTwitterのノリ自体、アングラに近いものもあり、そもそもが企業アカウントと相性は悪いのだ。だからこそ、そのアングラと企業アカウント、企業のブランドイメージが絶妙にマッチした時に大ウケするのであり、これは非常に高度な戦略なのであり、「ただただTwiiterノリで話せる奴が企業アカウントを運営する」というだけなら、そこらの中高生引っ張ってくれば誰でもできる話なのである。
・結論
結論として、ATSUGIの今回の企画は
①ブランドイメージに合っていない
②購買層と違う層への支持が多い
③加えて、購買層から不快の声が多い
という観点から、企画として失敗であると判断する。
これを強調するのは、何度も申し上げている「企業アカウントとして、企業の行動としてどうか」を主軸に置いて批判しているからであって、イラスト自体の存在の可否は問うていないからである。
企画としての批判、前も言ったような「このアニメつまんなくね」というような批判なので、イラストレーターの人格や、イラスト自体の存在を否定するものではないことは繰り返しお伝えしておく。
結局は、その使い方の問題なのだ。
(補足:2020年11月5日 1:05)
よくよく調べていくと、アツギは以前からかなり赤字低迷のようだ。
↑2019年時点で赤字(当初黒字5億予想)
↑2020年度頭でも赤字がさらに拡大
↑炎上のちょうど2日前には、希望退職者を募る記事まで。
2年連続の赤字に加え、コロナの大打撃。
アツギはもはやモラルがどうとか、なりふり構っていられなかったのかもしれない。
多少のリスクは承知で、燃えてもいいのでなんとか話題に……。
というところで、今回の企画は起死回生の一撃のつもりだったのだろう。
世間は残酷かな、こうやって話題になった後に、「アツギのやつ性能よかったんだけどな~」という声が出る。機能性や健康を訴える動画も地道に上げていたようだが、再生数は伸びず。
↑Youtube公式の「伝線を防ぐには」の動画。
再生数は1000回弱。
地道な、企業イメージに沿った丁寧な発信をしても伸びないのなら、いっそのこと…。
そういった発想に陥ったのかもしれない。
今回取り下げた以上、あくまでも「炎上商法」まではいかないとは思うが、
少なくとも「多少コンセプトと違ってもゴリ推ししよう」というスタンスであった可能性(=ここで指摘している「コンセプトの違い」は理解した上で、そのまま企画を信仰させている)はあり得るかな、と思った。
正直者が馬鹿を見る世界にはなってほしくない。
ATSUGIの、真面目な投稿が報われる方法は何かなかったのだろうか。
今回のように燃やすしかなかった? そんなことはないはずである。
ないはずなのだが…。
(追記おわり)
③今後の企業アカウントの運営方法
正直、中小企業のような小さな企業は、多少の炎上商法に頼ってしまう(なれ合いやTwitterノリで認知されようとする)ことは多少致し方ないことだとは思う。
ただ、ATSUGIは少なくともある程度の企業規模がある企業である。
(中小企業の製造業は一般的に資本金3億円以下と言われるが、ATSUGIは200億円)
であれば、Twitterノリに乗る必要など一切なく、ひたすらにブランドイメージに合ったツイートや企画を呟いていくほうが良いのである。
(※上記追記にて一部訂正済み)
そもそも、Twitterノリ自体が非常に危険な諸刃の剣であることを理解せずに使用している企業アカウントは多く見受けられるが、本件をきっかけに企業アカウントはTwitter運用を考え直してほしい。
元々、Twitterノリは「あまりにも固くなった負の企業イメージをやわらげよう」という意味合いはある。警視庁の例もそれだ。
ただ、「和らげようとしてぶっ壊してしまう」のは論外であり、タカラトミーの件もそうだが、「一番大事な企業理念や企業イメージは何か?」を念頭に置いたうえでTwitter運用をしないと、購買層でもないTwitter住民から「別にこのままでいいよ!!」と言われることを鵜呑みにし続け、いつかはただTwitterで有名なだけで、実際の購買層からは最悪のイメージを持たれるが永遠に気づかないという地獄のアカウントが出来上がってしまうことになる。
だから、企業アカウントは以下を意識していただきたい。
①壊したい負のブランドイメージは何か
②壊してはいけないブランドイメージは何か
③これからの発信は、その二つが明確になっているか
もしTwitterで運用していく場合、この3つを確認しながらツイートするなら多少マシになると僕は思っている。
あくまでも、企業アカウントという固いイメージを壊しつつ、大事な企業理念は守ったうえで発信を行っていく。
そういったTwitter運用が今後は必要になってくると考える。
それで言うと、ATSUGIは、最後に取り上げた、警視庁の元中の人が運用する「炎上しないTwitter運用」を頼ったほうがよいのかもしれない。