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純文学初心者のはなし~滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」~

どうも。純文学初心者です。

といっても純文学といっていいのか、まあとりあえず芥川賞作品、ないし候補作品読んでるよって感じで。あとはあんましよんでない。

とくにさいきんのばかりで、古いのはしりません。滝口悠生さんのジミヘンドリクスエクスペリエンスを読み返して、なんか思うとこあったので、自分の中の純文学イメージ、芥川賞のイメージをざっくり書きます。

 

さて。突然ですが「人間としてのバランス」みたいなものがあると思ってて。人間にはね。

なにかこうバランスがうまくとれている人が社会的によいとされていて、バランスがとれていない人が社会的にビミョーといわれる。

これはべつに「無難である」という意味の、バランスがとれている、ではなくて。

人としての一貫性があるかどうかというお話なんですよね。

一つに特化していることはそれはそれでよいバランスであると思うのですよね。

 

僕の場合、自分はバランスがとれてないなぁ、とはたと思うことがよくあるのであります。

 

とくに無難なわけでもなく、かといってなにかに特化しているわけでもなく、どこにもつかずどっちつかずフラフラと……

そういう意味で、人間としてのバランスが不安定な自分がいると思っております。

 

そういうときに純文学を読むと少し安心するんですよね。

物語的な人間、というものがいなくて、とても具体的な人間がそこにいて、バランスのとれていない人間である自分が共感できるなにかがそこにあって、けれどもそれはちゃんと形にできる何かではなくて。

 

純文学の、「形にはできないんですけど、文字ではなんとか形にできた、これって何て呼びましょうかねぇ」みたいな、そういうふんいきが自分にしっくりきて、自分も「ははは、そうですねぇ、僕も形にできないんですが、何て呼びますかねぇ」って感じなんですよね。

 

結局普通の物語というものは、何かをかっちり形にしてあって。そこに完成形がある。

それと同様に、人は自身を物語化して語るんですよ。滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」とかでちらと触れられたりしてる気がしますが。

正直ジミヘンで作者が言いたいこととは違うとは思うんですが、ジミヘンには「物語化する前の、人間そのまま」を書こうという試みがあると思うんですよ。ただそれがもうちょっと足りなくて、これでは芥川賞に届かなかった、というかんじなのかなぁ、とか。

他の例で言うと本谷有希子「生きてるだけで、愛」とかは逆に人間そのまま産地直送ってかんじで、あまりにもドストレートにぶっ混みすぎて胃もたれ、って感じかなぁと思っていて。

 

人間そのまま産地直送、あるいは書くことへの挑戦、ってのが、芥川賞とか純文学のざっくりとした感じかなぁと。

 

たぶん僕みたいなタイプは、「いまだ定義されていない形容しがたいなにか」であって、たぶんそのうちなんか定義はされるとおもうんですよ。病気だとか傾向だとかなんとかで。

けどその状態って自分が何者かさっぱりわからなくて、怖さがあるんですよね。

そういったところに、自分と似たような「形容しがたいなにか」があると、「あ、自分は定義されてはないってだけの、何かではあるんだな」という安心がある。

気がする。

 

まあ今日はこんなもんで。