言葉は水物、すぐに死ぬ

意識のうちに消失しないうちにさっさと文章にしましょう

今世紀最高の映画を絶対に観ろ~映画「ごっこ」感想~

・もくじ

4部構成です。

①まえがき(興味なけりゃ飛ばして)

②社会がつらいか、ならこれを見ろ

③嘘をつかぬ役者の最強の演技を見ろ

川谷絵音の魂の叫びを聞け

④頼む、早く観に来てくれ、死んでしまう

 

 

 

①まえがき

27日(土)のことだった。

僕は東京へ向かうためにいったん北九州へ向かった。

飛行機が福岡空港発のモノが取れず、北九州発羽田行きの飛行機をおさえ、空港へ向かっているときだった。

人の全くいない駅のバス停で、ひたすら空港行きのバスを待っていた。

突如自分のスマホの電話が鳴る。

個人用携帯を鳴らすのは。

家族。保険の勧誘。

 

あとは。

仕事で緊急事態が起きた時。

 

なった瞬間にすでに寒気がしていたが、着信先が上司だったのをみて、すでに吐き気がしていた。

電話に出る。

 

「〇〇です。いま大丈夫かな」

「はい」

 

大丈夫かと言われたら、たぶんよほどでない限り「大丈夫じゃない」とは言えない僕。まあ、その時は確かに大丈夫だったけど。

 

内容はその週に商品を納品したお客様からのクレームだった。

商品の一部に僕の知らない仕様があり、その仕様のために別の設定を商品に行う必要があった。それが抜けていたため、業務が突如止まったとのことだった。

 

飛行機の時間ぎりぎりで向かっていたため、混乱しつつ、受け答え、なんとか返し、LINE、バス降りて、電話、LINE。降りれない。いや、降りなきゃ。しかし飛行機。

 

ミスをしたという、その時点で上司のイライラはなんとなくちらついていたが、連絡がなかなかスムーズに取れない僕を見て余計にイライラしていた。

(デキる上司なので、表立って怒鳴ったり罵倒したりは一切なかった)

 

なんとか空港にはついて、ようやく落ち着いて電話をする。

ともかくなんとかお客様が業務ができるよう、技術者を急遽派遣する方向となった。

 

「とりあえず技術者をなんとか手配するから、今からしばらく連絡取れるようにしておいて。業者に連絡して」

 

はい、大丈夫です、という声が出そうになるのをぐっとこらえる。

何が大丈夫なものか。飛行機だぞ。

連絡がとれるものか。用事だとかやる気だとかそんな問題じゃない。

物理的に無理だ。

 

「あの…実は……今から飛行機に…乗るので…電話や連絡が…」

 

「…………わかった」

 

上司は優しい人だからこそ表にはほぼ出さないが、やはりその裏にいらだちが電話越しでも見えていた。

なぜそれを先に言わないのか。

ならもっと情報共有すべきことを絞るべきだ。

お客様への電話は。

業者への電話は。

 

そういういらだちを抑え、必要最低限伝えるべきことをお互いに伝え、やるべきことをした。

 

その優しさと、裏に見えるいらだちが、僕が社会に適合できていないことの証明書だった。

 

飛行機に乗り、そして降りてからも電話をかけながら移動し。

なんとか自体は、最終的には収束した。

 

 

 

そして僕は、ユーロスペース渋谷に向かい、映画「ごっこ」を観たのだった。

 

 

②社会がつらいか、ならこれを見ろ

本題に入ろう。

なぜ今のような前書きを書いたか?

全く無関係な前書きを書くほど僕も馬鹿ではない。

原作の「ごっこ」も、今回紹介する「ごっこ」も、社会に適合しきれない人々を描いた作品だからである


映画「ごっこ」プレミアムトレーラー

この映画はクソニートひきこもりの「城宮」と「ヨヨ子」の物語である。

ニートの城宮は、ある日自分の家の窓から、向かいの家のベランダで傷だらけの「ヨヨ子」を見つける。

正義感からか、突発的に城宮はヨヨ子をさらってしまう。

 

そうして二人の生活が始まる。

城宮はヨヨ子を自分の子と言い張って生活を始める。

 

という物語。

 

物語で驚くのが、最初はお互い気まずい雰囲気が流れるし、周りからも「本当に親子か?」という目線が向けられるが、だんだんと二人の距離が近づいてきて、だんだん視聴者も最初のことを忘れてきて”親子もの”としてみる様になっていく。

 

しかしもちろん、それで本当の親子になれるわけでもなく、攫った罪が消えるわけでもなく。

 

この物語は、生ぬるいハッピーエンドにはしない。

だが、残酷な終わり方にもしない。

親子とはなにか?家族とはなにか?社会とはなにか?を突き詰めた作品である。

 

決定的にほかの家族モノと違うのは、「お互いがお互いから学ぶ」ことが強いのである。

 

城宮はニートで引きこもり。ほかの人から話しかけられることも慣れていない。すぐキレる。いわゆる社会不適合者である。

だが、ヨヨ子を見ていて、少しずつ自分にもできることを教えるうちに、城宮も色んな学びを得るのだ。

 

最初は「ちゃんとありがとう、と、ごめんなさい、言えるようになろうな」というところから。

赤信号を守ることを教えるうちに、自分も守るようになったり。

3食カップラーメンから、ヨヨ子のために料理を覚えたり。

そうやって、少しずつ、ヨヨ子のためにニートの城宮は頑張っていくのだが。

 

10年近くも引きこもりしていたニートがそんなにすぐに子供を育てられるほど自立できるか?

そんな甘い話ではない。

 

社会不適合証明書は簡単に返却できない。

僕は、それをこの25年間生きてきただけでも強く実感している。

それは定職についた僕であっても、だ。

 

どこか「社会になじめない、つらい」と感じたことが少しでもある人々は、生ぬるい復活劇みたいなものを描かれるとイライラしてしまうと思う。僕がそうなのだが。

だって、そう簡単に「復活」なんてできないからである。

社会に適合する方法がわからなかったり、わかっててもできないまま今の今まで人生やってきているのだから、よほどのことがなければ、この「社会不適合」のレッテルはそうそう剥がれやしないのである。

 

だからこそ、この映画はしっかりとそこは描かれている。

そのつらさと適合できなさは残ったままだ。

 

だがそれでも城宮を動かすものは、なんなのかと聞かれると、ヨヨ子なのである。

 

そこにしかとした説得力がある。

生半可な気持ちで社会不適合者を描いていない。

本気でそういう社会の闇を描こうという気概がそこにあり、ならどうやれば立ち直れるのか、立ち直るきっかけはあるのかという部分が描かれている。

 

③嘘をつかぬ役者の最強の演技を見ろ

上記に書いたように、作品において、本気でこういう社会から外れたものを書こうという気概がなければ、「こういうの書いておけば、引きこもりは共感してくれるんでしょ?」という適合者側からの上から目線満載の雰囲気がにおってきてしまうのである。

 

それをさせないのが、役者たちの演技力である。

これは社会不適合者として保証させていただくが、絶対にこの作品に「不適合者をナメた態度」は存在しない。それだけ役者の気合が入っていた。

本作に出ている役者の演技力は目を見張るものばかりで、ここでは主役の二人に関して取り上げる。

 

千原ジュニア

引きこもりの城宮役である。

この選出は正解だった。

これがイケメン俳優なら、先に書いた「上から目線」が出てきてしまう。

ただ、「人のよさ」が出ていないと、この作品は成り立たない。

引きこもりの根っこに眠る人のよさが、ヨヨ子のために動く力となっているわけだから。そこがなけりゃ、「ただの引きこもりがここまでできんよ」となってしまう。

その塩梅がちょうどいいのが千原ジュニアさんであった。

そしてお笑い芸人として知られているが、昔からマイナー映画に何本も出演しており、映画界では役者の一面を知られた存在である。

千原ジュニアの演技は、たびたび出てくる狂気—引きこもりがもつ社会不適合性—を出しつつも、本質的な根っこは優しさがどこかにある演技で、だから幼馴染のマチ子もほほえましく眺めるし、皆も親子と思ってみている。見ていられる。

 

だからこの作品のほのぼのさが成り立つ。

 

そして、本気度も成り立つ。

 

いきなりブチ切れるような演技もそうだし、子供に対して優しく接する演技もそうだし。

その両方が成り立つのはとても難しいのだ。どちらかにウソが混じってしまいそうになるが、千原ジュニアはそうではなかった。

 

狂うような魂の叫びが、僕の社会に合わぬ心にぐさりと刺さった。

 

彼の葛藤、決意、それらがすべて伝わる素晴らしい演技だった。

 

バットで殴りこむシーンと、ベンチのシーンがとてもよかった。

これから見る人はこの上記二点を注目してほしい。

 

平尾菜々花

この子が最強の子役であった。

近年ではNHKドラマ「悦ちゃん」などに出演し、その作品をみて「この子が出るなら観に来る」といって「ごっこ」を観に来ていた人もいた。

役の設定は5歳だが、この役者は9歳である。

 

しかし9歳とも思えぬ迫真の演技であった。

 

まず目力がすごい。

この作品はヨヨ子と城宮がお互いがお互いからいろいろ学んでいくお話なので、いくら城宮がニートとは言え、ヨヨ子ちゃんの精神年齢はある程度高くないと成り立たない。

ただ城宮にくっついていくだけの子供、という演技じゃ成り立たんわけである。

それを成り立たせているのがこの平尾菜々花の演技である。

城宮が引っ張っていっているようで、いつのまにかヨヨ子のペースにもっていく。

劇中でも、終始千原ジュニアは振り回されたという。

 

natalie.mu

 

(以下、上記記事引用)

ジュニアは台本を読んで「この女の子によって変わるんやろな」とヨヨ子役に映画が左右されると思っていたことを述べたうえで、平尾を「ただの天才」と表現。ビンタするシーンなどを回想しながら「思いっきり行けるかな?ってところも行けるんですよ。よう考えたら行けたんじゃなくて、行かさせられた。完全に手綱を取られてた」と絶賛する。

 

ビンタをするシーンがあったのだが、基本的にビンタは本気でやれという人と、言わない人がいる。ましてや、子供相手に本気でビンタができるか?というと、ためらうのが常。

映画関係者が聞いた話によると「本番に入った瞬間、”あ、これいくんやな”と思った」と語っていたそう。

そういう、周りの役者すら巻き込む空気感を持った女優なのだ。

 

news.nicovideo.jp

 

こちらでも「平尾菜々花っていう女優のためにも、この作品は世に出たほうがいいな」とまで言っているほどだ。

 

一番すごいのは、泣きの演技だ。

子供ながらに何度か泣くシーンがあるが、そこにも是非目をみはっていてほしい。

 

 

川谷絵音の魂の叫びを聞け

 

www.youtube.com

 

これはすべてこの映画のために書き下ろした曲である。

映画を見た川谷絵音が「是非やらせてください」と頼み、一度は制作者側からOKをもらった曲を破棄し、3つも自らリテイクをかけてようやく生まれた曲だ。

 

あとは何も言うまい。

そこには疑う余地のない魂の叫びが込められている。

聞け。

そして映画を見てもう一度聞け。

 

全てがここに詰まっている。

 

④頼む、早く観に来てくれ、死んでしまう

営業でまざまざと社会の不適合さを改めて突き付けられている自分が、究極にまでひねくれて、そんな状態で心をえぐってきた映画なのだ、これは。

ここまでの文章にどこか共感を得た人は本当に観に来てほしい

 

この作品は正直な話、宣伝費が足りない。

こうやって地道に、個人が宣伝するしかない。

 

だが俳優・制作陣・アーティストすべてが魂を込め叫んだ渾身の一撃を、ここで終わらせてしまっていいのか。

 

僕はこの原作が好きで東京に行って、関係者に原作の良さを売り込んできた。

だが映画をみてからは、この映画をもっともっと売り込みたくなった。

 

知っているか、映画は初週1週間で決まる。

もうすでに2週目だ。

初週が悪ければ2週目をやらないところもあるくらいで、基本映画はよほど大きな広告を打っていない限り2週程度しかやらない。

 

来週やるかわからない。今週金曜日までで終わる可能性がある。

頼む、早く観に来てくれ

gokko-movie.jp

リンク先に上映映画館一覧がある。

東京以外でも福岡・広島などでもやっている。

頼む。映画が死んでしまう。

 

つまはじきものたちの魂の叫びが消えてしまう。

 

どうかどうか、頼むから、観に来てくれ。

 

「あとで見よう」が、きかないのだ、映画は。

 

この一週間が最後の砦なのだ。

 

頼む。共感した人は、観に来てほしい

ちょっとでもいいと思った人は観に来てほしい。

 

頼む。

時間が合わないのであれば「時間を増やして」と投書してほしい。

遠くていけないのであれば、近くの映画館で「上映して」と投書してほしい。

 

それだけ、これは消えるにもったいない映画なのだ。

 

頼む。頼む。頼む。

 

なにかを、この作品のために、してあげてください。

 

よろしくお願いします。

日記:東京、飛行機、ふわふわ

・飛行機

飛行機に乗った。そのときの不思議なふわふわとういたかんじがまだ残っている。

地形を見るのがとても面白いと思う。飛行機にのるたびに。

今日は澄みわたる晴れ空だったおかげで、福岡から国東半島、四国、瀬戸内海としっかりみえた。

国東半島はみていておもしろかった。真ん中からなにかが吹き出して、それがあふれ流れ出たものがそのまま固まったようだった。

そうしてできた地形の、山の隙間に詰め込むように家や田畑が広がっていた。

とても縦長の隙間に詰め込むのがなんだかおもしろくて。

しばらく眺めていた。

離島はさらに面白かった。

島のわずかな平地、外側のへりに沿うようにちまちまと家がたっていて、ケーキのふちに飾りつけをしたようになっていて。

それが自然にそれを選んだのだな、という感覚があった。どれだけ人間が開発するちからがあっても、地形に沿って、地形にしたがって生きているのだなと。

ただ、福岡の平野は、福岡市から大野城あたりまで、なにかでなぎはらったのかのようにたいらですこし怖かった。これだけ山だらけの地形で、一部だけあまりに平らだったから。

もちろんそんなことはないだろう。平野は自然にできたもので、そこに人々が集まっているだけで、そこを人間がなぎはらったなんて、そんなゴジラじゃあるまいし。

ただなんとなーく、あっ、ゴジラが歩いたのかなと、そう感じた。

 

・チケット

あっ。そういえば栃木に行くんだった。チケットとらなきゃ。

そう考えて、テキトーに今日の朝イチの飛行機で行き、次の日の遅めの飛行機で帰るチケットを買った。

ネットでポンポン買っても、ちゃんと席がとれるもんだなとなぜか感心した。

インターネットの予約で、間違ったり、予約してたのにとれてなかったり、そんなことはいままでなかった。

だけどとてもフワフワしてるので。

価値も存在もなにもかも。

だもんで飛行機とかいう、クソデカイしセキュリティ厳重な、重圧感放ってる物体の乗車券がこんなあっさりでいいのかなぁ、という謎の不安があって。

でも現実なのだ。

ちゃあんと、色んなセキュリティをとおって、もし俺が、「おいおい、こんなので予約がとれるとかうそっぱちだろ、キャンセルしちまえ」と開き直ったにしても、必ず請求が行くように、出来ているのだ。

 

・現実

現実感がない。

高校時代の、唯一の知り合いもそんなかんじだった。

唯一の、というと誇張だろうが、他の知り合いからは避けられたりなんたり、あとはゲームをするだけの仲だったり、そんな感じで、Twitter上にはまだいるけれども、実際に会う知り合いはほとんどいない。

だからだろうか。

そもそも高校自体が、現実だったのか今でも不思議だ。

自分は高校(正確には高専だが)を辞め、そのため同窓会名簿にも載らないし、個人的に呼んでくれるほど好かれていたとも思えない。

だもんで、高専に関する何かに触れることがほとんどなく、思い出すきっかけもなく。

だから人生でそこだけ、途切れている別世界のような感覚があるのだ。

世界線を飛んだような感覚。地続きだった小学校、中学校から一気に高専に飛び、そうしてまた、一気に大学にとんだ。

だからいくらわかっていても、飛行機で飛んでいるときみたく、今見ている景色がちゃあんとした現実で、今見ている地形が自分のすんでいるところだと言われても、なんとなく別世界なのだ。

 

そんな、高校自体がフワフワしているところに、さらにフワフワとした存在がヤツだった。

 

攻殻機動隊を教えてくれたヤツは、俺と仲良くなって、ケンカして、そのタイミングですぅッと消えた。

本当に消えたのだ。

なんの予兆もなしにじわっと学校から消え、SNSのアカウントすら消え、ヤツを証明するものがほとんど消え、すぐに半年すぎた。

とてもあっさりしているが、僕もヤツの存在がフワフワしていたからか、特に気にならなかった。

あっ、消えたんだなぁ。

そんなかんじだった。

 

だがヤツはもう一度、半年後にこれまた予告なしに突如学校に復帰した。

 

そうしておれはヤツとまた再会したわけだが、ヤツはどこにも居座らず、どこかしこに色んなコミューンがあって、流浪の存在だった。

 

だから結局、またしても学校を辞め、そうして二度と現れなかった。

 

ほどなくして成績不振につき高専を辞め、大学に言った俺はそんなヤツのことも、どーも現実感がない謎の思い出として浮いたままになっていた。

 

そんなヤツもちゃんとやっぱり生きていたみたいで、東京で生きていることがようやくわかり。

ちゃんとした現実として顔を合わせる。

 

あー、現実なのかー、と、いまだ不思議な感覚だ。

まだフワフワと浮いている。

 

東京という初めてくる街のことも、羽田空港も、飛行機も、ふわふわとしてる。

 

それがしっかりと形になっていくのだろう、今日これから。

自分の体験を通じて。

 

まあ何はともあれ、東京、栃木、楽しんで参りますよ。

それはまぎれもなく、ちゃんとした現実です。

 

文章書くのたのしい

今大事な2分間を逃した。

 

それはめちゃくちゃ書きたい欲と、アイディアがあふれていたタイミングだった。

そのタイミングでなぜかPCが突如謎の不調を起こし、一切書くのを許さなかった。

結果、クソつまらん文章が出ることになったら、PCをぶち壊すことにしよう。

 

ともかく、わけもなく感情があふれてきて書きだしたりなんたりアウトプットしたいというタイミングがある。

ただ、わけもない感情とは言いつつも、一応わけがあるわけなのだ。

その”わけ”とやらを知るためには、ある程度形にしてやらねばならんのだ。

 

その時にそれをどう形にするのか、というのが文章であり、小説なのだ。

 

小説のよさは、型があるのだ。

ここでいう型は、たぶん多くの読者が想像する型ではない。

クッキーの型とか、氷の型とか、そういう型なのだ。

一緒やんけ、と思うだろうがそうではない。

 

非常に抽象的でふわふわどろどろした感情の液体をいかに固めていくかというのは、クッキーの型のような、外枠がうまったものに流し込んでいくしかないのだ。

そうすることでいったんは形にできて、それをじっくり眺めることで、自分のことがわかるようになってくる。わけがわかってくるのだ、自分の感情の。

 

今もそうで、よくわからない何か書きたいよーという感情を、ブログで「小説書くってなんだろねってこと書こうね」って型に流し込んでいっているだけで、それ以外全くの—プラン、何が書きたいも何もないわけである。

 

そんなら自由に書けばいいやんけ、と思って自由に書いてみたりするのだが、そんなことをしたところで全く文章にならないし、訳の分からないものがそのまま訳のわからないものとして出てきて、まったく訳の分からんままですべてが終了してしまうのだ。

それだったら脳内で自分の感情を永久に凍らせておいても全く問題ないわけで、しかしそうしておいたところで何万年もあとに永久凍土から感情が発掘されました、なんてことはなく、ほかの感情とごちゃごちゃになってどこかへ消えてしまう。

 

だもんで、今ここでも、ともかくかくかく…ということを意識している。

そこに面白さだとかはもちろんちょっとは意識しているのだけれども、読みやすさとか起承転結は一切意識していない。

しいていうなら、型としての起と結、だろうか。意識しているのは。

 

最初とケツだけ決まったもんに、とりあえず感情の渦をぶちこんでみる。

それが僕の文章の書き方であります。

みんながどう書いているのかな~というのはちょっと気になる。

どう書いているか、みんな教えてね。

言葉は水物、すぐに死ぬ

なんかどっかで書いたワードです。

いやほんとに水物だし死ぬんですよね。

かきたかった思いとかやりたかった思いとか、感情その他もろもろ、ほっといたらすぐに消えます。

人間気持ちなんてものはすぐに移り変わっていくので。

 

だから昨日考えたSF小説のネタも、この前考えた独楽を題材にした小説のネタも、もはや露と消え失せてしまいそうです。

その場でアイディアだけはあって、それを生かそう形にしようという力が働いてる間にある程度形にしないと、アイディアだけ残って、それを形にする力はどっかに消えてしまうんですよね。

 

その時々の感情とか考えは残せない。

よってこうやって文章として残すわけであります。

 

今書いているのは僕がよく言う「ノンストップ文章」である。

推敲なし考えるのもなし、ともかく「あーかきたい」と思った時に、前を読み返すことも一切なくともかく書き散らすことである。

それをすると、自分が頭の中で「あー」と思っていたよくわからない感情が全部どばっと文字で出てくるので、いったん書き出していると後で読み返すときにめちゃくちゃおもしろいし、めちゃくちゃ発見があるんですよね。

しかしこれを書いていないと、あとで思い出すことは断片的にしかできない。

これを丁寧な文章に直す過程でいちいちそぎ落とされていく部分がとても大事なのに、それがない。

だからこういう文章をちまちまと書いては、読み返すのが趣味である。

 

そういう意味で、どうもPCは苦手で、手書きを書きがちである。

手書きだと本当に一切の書き間違いすらも許されない、許されないというか、そのまま残る。だもんで、それがまた奇妙な面白さを生んだりするわけですが、PCだとそうはいかない。

特に嫌なのが、”全部字が均等にきれいだ”というお話なんですよね。

手書きだと字を崩せます。だからぶっちゃけ言い訳ができます。

ここは考えてるからきれいにかけるしきれいな文章浮かんでるよ~とかしているところによくわかってないけど思いだけはある、みたいな文章書かざるを得ない状況になったときわざとめちゃくちゃ汚く書いて「ああああああああああしらんしらんしらーん!汚いからしらーん!!」とやります。

そうして逃げます。

それを別にそのまま会議資料として職場に提出するわけでもあるまいし、そんなんどうだっていいんです。

とりあえず掃き出して書いてしまうのが目的なのでそれでいいんです。

それすらできなくなって、今の感情がただの「よかった」「なんかよかった」だけにとどまるのがとても嫌なんですよ。

 

というわけで今こうやって書いている次第であります。

 

で、面白いことに、こうやって、書くと自分の今一番いいたいことが前に出てくるんですよね。

じゃ、今日自分は何やってて、なんでこういうこと書きたくなったか?

というと、理屈はないんですよ。

今日は熊本まで行ってきて、川下りしてきて、それはそれでなんか刺激にはなったんですが。

そこをいちいち「ブログのネタにしよう…」とかいってストーリーとしてつなぎ合わせようとして考えている間にいろんな大事なものがぽろぽろ落ちて行って、結局言いたかったことなんだっけ?となってしまう。

 

だから自分は本当にこういう勢いのある文章というのを大事にしている。

反面、勢いがつかないと何も書けないわけですが。。。。

 

というわけで勢いがつくうちに書きました。

おかげで言葉は腐らずにちゃんとネットの永久凍土に凍らされて保存されました。

おめでとうございます。

 頑張って小説も書きます。

みんなもどんどん考えはさっさと吐き出そうね。

好きな作家が、死ぬということ~映画「ごっこ」について~

・初めに

僕は今日、小路啓之という漫画家について話を書く。

僕が応援していたが、事故で突如亡くなった作家さんだ。

そのすべてをここに記す。

小路啓之ファンにはもちろん読んでほしいが、知らない人でも、好きな作家・漫画家・アーティストがいる人、特にまだマイナーな作家を応援している人は必ず読んでほしい。

 

こういうことは、頭でいくら理解していようが、当事者にならにゃわからない。

自分が作家を応援して、その作家がだんだんうまくなって、有名になって、それで次をワクワクしているところに、突如それが一切合切消え失せる恐怖。悲しみ。

そういう当事者の、悲痛な叫びを聞いてほしい。

 

小路啓之が死んだ

小路啓之

僕の好きな漫画家だった。

おととしぐらいか。

それは突如訪れた。

ぼんやりとネット記事を眺めていたら、こんな記事が流れてきた。

www.huffingtonpost.jp

実際に見た記事はこれじゃなかったので、タイトルには「リカベント自転車による事故で漫画家が死亡」とか書いてあって、リカベント自転車、という特殊性をメインに記事が書かれていた。リカベント自転車は仰向けに寝るような体勢でこぐ自転車なので、横の力に弱い?とかなんとかで、それでリカベント自転車で乗っていたが突如転倒し亡くなられた、ということが書かれていて、「ほーん」というくらいに読んでいた。

するとそこに。

 

「漫画家 小路啓之

 

と書いてあった。

 

あっ。

 

そうかあ。

 

それが最初にでた感想だった。

 当時こんなツイートを自分でもしていたが、こんなことは実際にはみじんも思っていなかったのは鮮明に覚えている。

ショック!頭真っ白!

とかそんな既存の形容できる状態ではない。

 

すとん。

 

そういう音。

何かがするりと抜け落ちて。

ただそれがあまりにもきれいで。

違和感をはっきりと感じることができなかった。

なにかそこから抜け落ちたはずだけど、何が落ちたかわからない。

そういう感情だった。

 

小路啓之氏との出会い

出会いといっても知り合ったわけでも何でもない。

ただ、僕がその作品と出会った時の話。

それは全くの偶然だった。

僕はジャンプ改を買った。調べたら2011年くらいの話だったっぽい。

そんときにシャーマンキングの読み切りが乗るとの話で、当時表紙もマンキンになっていたので、聞いたこともない雑誌をさくっと買った。

そしてマンキンを読み、それ以外の漫画にも目を通すが、どこがおもしろいかよーわからんのばっかりで、とても目につかない。

もちろん、何作かは読めるものはあったが、そのくらい。

 

私の中で、媒体にはそれぞれの向き不向きがあると思っていて。

漫画は特に、感覚的に読みやすく(内容のむずかしさとかではなく)、頭に入りやすいことが大事だと思っている。

文字をぐだぐだ書くのはもってのほかで、そのコマで言いたいこと伝えたいことを一枚の絵に抽象的におさめ、文字をさして読まなくても、その雰囲気が、流れが、じわりと伝わるような漫画がよい漫画だと思っている。

 

そのなかで、小路啓之「犯罪王ポポネポ」がそうだった。

そして漫画のわりにリズムのよい語感を多くつかい、文章だけでも良いコマにもその内容が伝わる一コマを書き。

言葉は入りやすい。

絵も入りやすい。

それでいて、読み込むととても漫画とは思えないほど文学的で。

 

高尚さはないのに、奥が深くて。

読みやすくて。

それがとても好きだった。

次号からは、シャーマンキングとポポネポしか読まなかった。

 

そうして、そこからはまった僕は、小路啓之先生の漫画を。ほかの作品も読み始めたのだ。

 

・漫画としての評価。先生との交流

そのあとに、たしかまず「かげふみさん」を読んだのだ。

雰囲気はおんなじだが、まだまだ下手だった。

どう下手かというと、語感はいいが文章が下手で、話の内容が伝わりずらいし、主語が抜けたり述語が抜けたり、そして漫画として描いてほしい顔、描写も抜けたり。

イマイチもう少し、という感が抜けなかった。

 

しかし、この後に読んだ「来世であいましょう」と「ごっこ」は、傑作中の傑作だったのだ。

小路啓之特有の、生々しいリアルを書きながらどこか抽象的な絵で茶化しつつ、大事な部分は現実をまざまざと見せつけさせるエグさ。絵のほっぷさと非現実感のせいでするりと心の奥に入ってはくるが、そのあとに心の内からごりごりとえぐってくる。

そういう、刺さるものがあった。

ズバーン!という衝撃だとかそういうもんでなく、一回読んでからじわりじわりとしみてきて、永遠に心の隅に残滓が残ったままになるような、そういうしつこさがあった。

 

なのにいっこうに大きく取り上げられない。なかなか注目されない。

ネットを探していても、取り上げているブログも少ない。

この漫画がすごい!にもでてこない。

それがとても悔しくて、なんとか広めてやる~~うお~~~という勢いで私は何度かツイッターに人に勧め、大学でも人にすすめ、

ブログも書いた。

(先生もRTしてくれた)

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 (先生、わりとリプライもくれた)

 

 

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そんなこんなで、とてもうれしい日々だった。

この漫画家を応援したい。

ごっこ、来世で会いましょうの後に、メタラブという漫画を連載していて。

それも面白かった。

恋愛もので、恋愛とはなにか?という部分の核心にせまるものだった。

特に大学生に読んでほしい恋愛漫画

だがこれも、どーも注目されない。

だが今後絶対に注目される日がくるはず。

漫画家として、どんどん伸びてくる日がくるはず。

もっと知られていく日がくるはず。

 

だからそう思って、布教活動を続けてきた。

 

そうして新しい連載「雑草家族」と「10歳かあさん」が出てきて、この人の得意なジャンルが、家族や恋愛ものであることがだんだんと確立してきている感、そしてそれが売れると出版社もわかってきている感が出てきていて、この作品がどう注目されるかと待ちわびているところだった。

 

・作家の死亡、そのあと、僕がしたこと

あとは言うことはない。

冒頭かいたように、突如、作者の死が訪れたのであった。

 僕はそう言い、何かを残そうと考えた。

先生の漫画をまだまだ広げていきたい。だからこのタイミング、リカベント自転車という記事で、小路啓之が少しでも話題になっている今、漫画のことを伝えていくべきである。

 

そしてこの後、そう考えた僕がどういう行動に出ていくか、お分かりだろう。

 

 

 

 

何もしなかったのである。

 

 

 

こともあろうに、僕は何もしなかったのである。

もちろん、作家先生がしんで、もう残すものがなくなり、それを伝える人々も我々しかいないことは重々承知していた。

だが、何かがすとんと落ちたような気持ちになった僕は、ただ悲しみに明け暮れて、自分の中からそのまま小路啓之先生は消えて、そのままでしかなかったのである。

 

それはエネルギーになるわけでもなんでもなかった。

 

だって、僕は先生と交流が取れるのがうれしかった。

まだまだ次の作品が見れるのがうれしかった。

私は、今の作品をリフレインしたかったのもある。

しかし、次が見たかったのだ。

あの人はもっともっと、いい作品が、もっと注目される作品が、書ける先生だった。

だから、次が、新作が、見たかったのである。

 

そんな状況で、昔をリフレインして一体何になるのか。

それで小路啓之先生の新作が天から降ってくるのか??

焼き直しが出てくるのか?

先生と一生涯一緒に過ごして、作風も作画も完ぺきにまねできる漫画家が現れて続きを書いてくれるのか???

もちろんそんなことはない。

 

この人が書く次の作品はもう見れない。

僕が「もっと面白いものが書けるはず!」という期待以上の作品が出てきて。

それがワイワイと色んなところで取りあげられて。

その流れで昔の作品も取り上げられて。

この作家さんを応援する人がもっと増えて。

そうして次の新たな、もっともっと面白い作品を先生が書いて。

 

そんな未来は露と消え失せた。

 

そうして、僕はエネルギーを抜かれた。

楽しみを抜かれた。

 

先生の死と同時に、新たな漫画作家を追うことも特にしなくなり、

ただただ、思い出したように、持っている漫画で続きを買っていない分を買うような、そんなぐらいの漫画の読み方になっていった。

 

書いていたブログもやめた。

 

ブログはサイトが古くなり、更新しなくなったせいでリンクも切れた。

先生からRTもらえた記事も、ネットの海に消え失せた。

 

 

・映画「ごっこ」の公開決定。

あれからもう二年近く経った。

もちろん先生のことは忘れちゃいないが、評論書くぞー追悼本書くぞーなんて気は失せたまま、その日を迎えた。

 

 

小路啓之先生の、「ごっこ」の、突然の映画化。 

 

「は?」

という感想が先にきて。

そのあとに本物の興奮がじわじわと湧き上がってきた。

まだ先生の作品の、続きが、この人の作品を発展させたいと思っている人がいたのか!

そう思ってうれしかったと同時に、何をやっているんだという気持ちにかられた。

 

俺は何をしていた?

 

この映画を作られている間に俺は何をしていた?

もちろん何もしちゃいない。

宣伝もなにもしていない。

評論本も作っていない。

あれだけ好きだった先生を語る機会を一切なくし、何もしていなかった。

 

俺は何をしている?

 

そう思って、今日この日の、ブログを書いた。

 

あの漫画をしっかり読んで、この漫画に込められたエッセンスに共感を覚え、映画にしようとしてくださった皆さんには感謝しかないと同時に、どこに惹かれたのか24時間飲み明かしたい気分でありますし、なんならもはやこのままの勢いで来世であいましょうも映画化してくれませんかね?無理ですかね?まあ試しに読んでみてくださいよ先生。

映画のポスターの背景に原作絵持ってくるとか粋なことしやがってバカヤロー。

明らかに漫画を「ただの原案」でなくて、漫画自体に思い入れある作り方じゃないですか。

映画を作る発端は誰ですか?

誰が最初に発案しました?

それに乗ったのは誰ですか?

いやマジで会いたい。

そのぐらいの興奮がずっとあった。

 

だから少しは、制作陣にこのブログが届いて、小路啓之作品こんなに好きなやつおるんやぞ、もっと広めろ!!!!

ということが知れれば、ちょっとは貢献できるんじゃねえかな、という思いもあって書かせていただいた。

それで少しでも、小路啓之ファンがまた増えれば。

また作品を、発展させてくれる人が増えれば。

 

それだけで。とてもとてもうれしい。

 

・好きな作家がいる人へ

ここに書かれている話は、好きな作家(同人レベルから商業誌連載レベルまで)が生きている人には全員読んでおいてほしかった。

生きているうちにしっかり布教してほしいし、何よりも、”死んだ後からが本番である”ということである。

死んだ後にその作家を広めるのは誰か?

その作家を好きだった人、つまりお前しかいない。

その作家がまだ発展途上だった?ならなおさらだ。

創作者に広げまくって刺激をあたえつづけろ。誰かがそれのオマージュを書くかもしれん。同人を書くかもしれん。それにインスパイアされた全く別作品を書くかもしれん。

そのはてに映画化してくれるかもしれん。

作家の生命は死んでも作品は残る。

そしてそれが未完のものであっても、エッセンスは残る。

不完全でもそれを好きと思ったお前が、感じ取ったものは何か。

そこにその漫画家の良さが詰まったエッセンスがある。

それを広めるんだ。

それを広めることで、作家も、やりきれねえ思いをしているお前らも救われる。

広めろ。

布教しろ。

作家はただのしかばねとなってしまった以上、声はあげられねえ。

上げられるのは出版社の宣伝と、書店の声だけだ。

お前が声をあげるしかない。

それをどうか、忘れないでほしい。

 

 

小路啓之氏「ごっこ」について

ここまで読んでいったんだから。ついでだ、「ごっこ」を宣伝するから見て行けよ。

「ごっこ」

 

 この表紙にいる変な目した子が「ヨヨ子」である。

主人公は30ちかくのおっさん。

そのおっさんがこのヨヨ子を誘拐し、”コト”に及ぼうとする。

しかし、ヨヨ子ちゃんは以前の親にぼろぼろに虐待されていたからか精神が不安定になっており、おっさんをお父さんと勘違いする。

それから、おっさんはヨヨ子のおっさんとしてふるまうことになった。

 

ストーリーを聞くと犯罪まみれでクソ気持ち悪い絵が浮かぶのだが、そこをうまく調整するのが小路啓之マジックである。

それ以降続くのはほのぼの子育て漫画で、この目つき悪いヨヨ子が生意気でありつつもだんだんとかわいいな~と思えてくる。それが重要なポイントで、これが萌え萌えのかわいらしすぎるキャラクターであったら、おっさんがコトに及ぼうとするほうにばかり目がいくだろう。

しかしこの絶妙なデザインと、変なことを言い出す子供の、妙な感覚をうまく描いているせいで、僕らもヨヨ子ちゃんを「見守る側」にすっかりと回ってしまい、おっさんも育児に専念しているからすっかり犯罪者と誘拐された側であることを忘れてしまう。

そんなこんなで話が続いていくわけだが、もちろん攫われたことが消えるわけではなく、ヨヨ子の本当の親が出てきたり、自分が犯罪者であることが最終的にばれてしまい……

 

と。

まあこんな感じである。

この作品の重要なポイントは、あくまでもメインは”育児漫画”かつ”恋愛漫画”であることである。

誘拐犯の悲痛な悩み……誘拐された子のつらい人生……

そういう社会派な話では全くない。いや、社会を描いているのに間違いではないが。

誘拐したというのはあくまでもこういった無関係だった大人と子供が家族ごっこをするという状況を作り出すためのキーでしかなく、そういった観点から「家族とは何か」「子供と親とは何か」という部分を描いていく話である。

「あらすじ聞いて身構えてたら案外読み始めたらほのぼのと読めてなーんだと思っていたらやっぱり身構えていたの間違えてなかったやんけ」

という感じで、油断してついつい心の門を開門して読んでしまうわけですが、そうすることで心にめちゃくちゃ刺さってくるのでぜひ心の門全開にしていってくださいね。

 

・映画「ごっこ」に求めること

もう出来上がっているのに、求めるも何もないですが。

もちろん映画化するうえで、ある程度映画を見る客層に作品を寄せていく必要があるのはわかっています。

しかしこの作品で重要なのは、「ほのぼの子育てシーン」です。

一回シリアスやどろどろとした重さを忘れさせ、そこでぐぐぐっと鑑賞者の心を油断させるのがとても大事だと思います。

それがあってからの、「いや、重要な話忘れたらあかんでしょ」とドカンとくるのがこの作品の醍醐味だと思っています。

それはどれだけシリアスさを残しつつ、ほのぼのさを全開に出していけるかというめちゃくちゃ難しい話だと思うんですよ。

ええ難しいと思います。

けどこれを映画化する以上、そうしてほしいなあ、というのが、一人のファンとしての、思いであります。

 

 

 

以上。

長くなりましたがこれにて。

みなさん、これをきっかけにぜひぜひ小路啓之作品、読んでくださいませ。

そして、死んでしまって、あるいは活動をやめて、そのまま忘れ去ってしまった作家さんが今までにいませんでしたか?そういう作家さんのこと、また思い出してみて、この記事よんでみてください。

 

おしまい。

純文学初心者のはなし~滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」~

どうも。純文学初心者です。

といっても純文学といっていいのか、まあとりあえず芥川賞作品、ないし候補作品読んでるよって感じで。あとはあんましよんでない。

とくにさいきんのばかりで、古いのはしりません。滝口悠生さんのジミヘンドリクスエクスペリエンスを読み返して、なんか思うとこあったので、自分の中の純文学イメージ、芥川賞のイメージをざっくり書きます。

 

さて。突然ですが「人間としてのバランス」みたいなものがあると思ってて。人間にはね。

なにかこうバランスがうまくとれている人が社会的によいとされていて、バランスがとれていない人が社会的にビミョーといわれる。

これはべつに「無難である」という意味の、バランスがとれている、ではなくて。

人としての一貫性があるかどうかというお話なんですよね。

一つに特化していることはそれはそれでよいバランスであると思うのですよね。

 

僕の場合、自分はバランスがとれてないなぁ、とはたと思うことがよくあるのであります。

 

とくに無難なわけでもなく、かといってなにかに特化しているわけでもなく、どこにもつかずどっちつかずフラフラと……

そういう意味で、人間としてのバランスが不安定な自分がいると思っております。

 

そういうときに純文学を読むと少し安心するんですよね。

物語的な人間、というものがいなくて、とても具体的な人間がそこにいて、バランスのとれていない人間である自分が共感できるなにかがそこにあって、けれどもそれはちゃんと形にできる何かではなくて。

 

純文学の、「形にはできないんですけど、文字ではなんとか形にできた、これって何て呼びましょうかねぇ」みたいな、そういうふんいきが自分にしっくりきて、自分も「ははは、そうですねぇ、僕も形にできないんですが、何て呼びますかねぇ」って感じなんですよね。

 

結局普通の物語というものは、何かをかっちり形にしてあって。そこに完成形がある。

それと同様に、人は自身を物語化して語るんですよ。滝口悠生「ジミヘンドリクスエクスペリエンス」とかでちらと触れられたりしてる気がしますが。

正直ジミヘンで作者が言いたいこととは違うとは思うんですが、ジミヘンには「物語化する前の、人間そのまま」を書こうという試みがあると思うんですよ。ただそれがもうちょっと足りなくて、これでは芥川賞に届かなかった、というかんじなのかなぁ、とか。

他の例で言うと本谷有希子「生きてるだけで、愛」とかは逆に人間そのまま産地直送ってかんじで、あまりにもドストレートにぶっ混みすぎて胃もたれ、って感じかなぁと思っていて。

 

人間そのまま産地直送、あるいは書くことへの挑戦、ってのが、芥川賞とか純文学のざっくりとした感じかなぁと。

 

たぶん僕みたいなタイプは、「いまだ定義されていない形容しがたいなにか」であって、たぶんそのうちなんか定義はされるとおもうんですよ。病気だとか傾向だとかなんとかで。

けどその状態って自分が何者かさっぱりわからなくて、怖さがあるんですよね。

そういったところに、自分と似たような「形容しがたいなにか」があると、「あ、自分は定義されてはないってだけの、何かではあるんだな」という安心がある。

気がする。

 

まあ今日はこんなもんで。

物語化する人間の話

 

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 

 

ついこの間、人にすすめられてこの本を読んだ。そのなかでちょいとラカンフロイトに触れていて、非常に興味深かった。

(と、こう書くといかにも「ラカンフロイト、いいよね……僕結構読んでいるんだよね」感が出るが、残念ながら一切読んでいない。興味はあるんだけど)

 

そのあたりで、「記憶は"過去の真実"ではない」という章がある。

話の趣旨としては、「人は自分を語るときに物語化して話すので、「過去の事実」を見るために語るわけではなく、「自分が何者であるか」という部分を見るために自分を語る」という辺りの部分から、自己とそれに対する認識の話が続いていく。

 

ここで、はて、と思いまして。

(ここから一見関係無さそうな話が続きますがしばしお付き合いください)

 

ついこの間、年明けたばかり、僕は仕事があんまりうまくいっておりませんでした。

そんでもって、それに関して説教され、そのタイミングで一年の振り返りレポート発表が重なり、説教とレポートでダブルで自分の無能さを実感させられ、ボロボロに沈んでおりました。正直仕事やめたいというとこまでいっておりました。

しかし、本気で「やめてやる」とちょいと思って、転職サイトなどのぞきこんでみると、冷静にやめることを考えられるようになって、「追い込まれて辞める」というマイナスのイメージから、「ひとつの選択肢を選ぶ」というフェーズに考えられるようになりました。

また、レポート発表のタイミングで、直属上長は、ほめるでもけなすでもなく、淡々と「できたこと、できなかったこと」を評価してくださいました。そのおかげで、「あ、ここは本当に評価されていい項目なんだな」と、自分はできないばっかじゃないんだな、と思えました。

そういったこともあって、なんだかころっと気持ちが楽になって、「色々やってみるか!!!」という気になって、最近むしろ活動的になってきました。

 

 

はい。

ここまでが、「物語化した自分語り」です。

別に推敲して脚色したとかではなくて、ほんとに語っただけです。

では、一応の事実関係だけ書いていきましょう。

 

(昨年末)

私が仕事に関して疑問を持ち始める(このままで自分は向いているのか?)

→転職サイトを見始める

→少し辞めた後のイメージができるようになる

→年明け、説教される

→めっちゃへこむ

→飲み会でさらに体力を削られ、さらに不調

→淡々と上長にほめられる(特に心情変化なし)

→その後の土日を淡々と過ごす(気持ちは沈んだまま)

→日曜日友人とすごし、誕生日を祝われる。沈んだ気持ちが少しは変化?しかし沈んでいる

月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった

→それにともないメンタルも安定

→沈む思考からプラス思考へ

→現在

 

ポイントは"月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった"です。

あくまで時系列として、「転職サイト→上長の冷静な評価→メンタル改善」となっているだけで、これだけではそこに因果関係があるのかわかりません。

実際記憶をたどると、もちろん冷静な評価をしてくださったのは嬉しかったですが、かといってそれを気に上向きにメンタルがよくなっていったわけではありません。

実際はきっかけはわからないのです。

物語化を無視していってしまえば、「謎に良好な健康状態が急に来たため、それに伴って自身のメンタル調子もよくなった」にすぎないのです。

僕がそこに、勝手な物語を作ったにすぎないわけです。

 

これは当たり前と言えば当たり前なことです。

僕の体は一つですが、僕のからだに変化を与える出来事は一つではなく、それぞれ一つ一つに何かしら体が反応していくわけであって、もちろん前後の繋がりが全くないとまではいいませんが、前後に関係なく目の前の出来事に体が反応することは起こりうるわけです。

僕の「体の調子がよくなった」という事実は、僕が認識していない事柄(例えば睡眠の質、例えば食べた食事)が原因かもしれません。

しかしそれを僕は認識していないので、認識している範囲の事柄から因果関係を見つけるしかないのです。

 

僕がこれを何で書いたか、というのは、本当に「起きたら何故か体調とメンタルがよかった」という状態であり、そこから色々と前向きになったのは事実だということ、そして、「その理由がわからない」ということを忘れてはならないと思ったからです。

自己分析をする上で物語化は非常に大事になってくるとは思いますが、実際に起こったことを取りこぼしてしまっては、逆に自己への理解から遠退いてしまう。と思ったので。

 

うーんごめんなさい今回は特になんか言いたいことはそんだけなので、備忘録的な意味合いが強いです。まあなんかの参考になれば。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書