はっぴゃくよんじゅうご

日記とは到底言えない承認欲求のための文章が転がる予定

物語化する人間の話

 

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XEPVMR1ML._SL160_.jpg" alt="寝ながら学べる構造主義 *2" />

寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

 

 

ついこの間、人にすすめられてこの本を読んだ。そのなかでちょいとラカンフロイトに触れていて、非常に興味深かった。

(と、こう書くといかにも「ラカンフロイト、いいよね……僕結構読んでいるんだよね」感が出るが、残念ながら一切読んでいない。興味はあるんだけど)

 

そのあたりで、「記憶は"過去の真実"ではない」という章がある。

話の趣旨としては、「人は自分を語るときに物語化して話すので、「過去の事実」を見るために語るわけではなく、「自分が何者であるか」という部分を見るために自分を語る」という辺りの部分から、自己とそれに対する認識の話が続いていく。

 

ここで、はて、と思いまして。

(ここから一見関係無さそうな話が続きますがしばしお付き合いください)

 

ついこの間、年明けたばかり、僕は仕事があんまりうまくいっておりませんでした。

そんでもって、それに関して説教され、そのタイミングで一年の振り返りレポート発表が重なり、説教とレポートでダブルで自分の無能さを実感させられ、ボロボロに沈んでおりました。正直仕事やめたいというとこまでいっておりました。

しかし、本気で「やめてやる」とちょいと思って、転職サイトなどのぞきこんでみると、冷静にやめることを考えられるようになって、「追い込まれて辞める」というマイナスのイメージから、「ひとつの選択肢を選ぶ」というフェーズに考えられるようになりました。

また、レポート発表のタイミングで、直属上長は、ほめるでもけなすでもなく、淡々と「できたこと、できなかったこと」を評価してくださいました。そのおかげで、「あ、ここは本当に評価されていい項目なんだな」と、自分はできないばっかじゃないんだな、と思えました。

そういったこともあって、なんだかころっと気持ちが楽になって、「色々やってみるか!!!」という気になって、最近むしろ活動的になってきました。

 

 

はい。

ここまでが、「物語化した自分語り」です。

別に推敲して脚色したとかではなくて、ほんとに語っただけです。

では、一応の事実関係だけ書いていきましょう。

 

(昨年末)

私が仕事に関して疑問を持ち始める(このままで自分は向いているのか?)

→転職サイトを見始める

→少し辞めた後のイメージができるようになる

→年明け、説教される

→めっちゃへこむ

→飲み会でさらに体力を削られ、さらに不調

→淡々と上長にほめられる(特に心情変化なし)

→その後の土日を淡々と過ごす(気持ちは沈んだまま)

→日曜日友人とすごし、誕生日を祝われる。沈んだ気持ちが少しは変化?しかし沈んでいる

月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった

→それにともないメンタルも安定

→沈む思考からプラス思考へ

→現在

 

ポイントは"月曜日起きるとなぜか体調がすごぶるよかった"です。

あくまで時系列として、「転職サイト→上長の冷静な評価→メンタル改善」となっているだけで、これだけではそこに因果関係があるのかわかりません。

実際記憶をたどると、もちろん冷静な評価をしてくださったのは嬉しかったですが、かといってそれを気に上向きにメンタルがよくなっていったわけではありません。

実際はきっかけはわからないのです。

物語化を無視していってしまえば、「謎に良好な健康状態が急に来たため、それに伴って自身のメンタル調子もよくなった」にすぎないのです。

僕がそこに、勝手な物語を作ったにすぎないわけです。

 

これは当たり前と言えば当たり前なことです。

僕の体は一つですが、僕のからだに変化を与える出来事は一つではなく、それぞれ一つ一つに何かしら体が反応していくわけであって、もちろん前後の繋がりが全くないとまではいいませんが、前後に関係なく目の前の出来事に体が反応することは起こりうるわけです。

僕の「体の調子がよくなった」という事実は、僕が認識していない事柄(例えば睡眠の質、例えば食べた食事)が原因かもしれません。

しかしそれを僕は認識していないので、認識している範囲の事柄から因果関係を見つけるしかないのです。

 

僕がこれを何で書いたか、というのは、本当に「起きたら何故か体調とメンタルがよかった」という状態であり、そこから色々と前向きになったのは事実だということ、そして、「その理由がわからない」ということを忘れてはならないと思ったからです。

自己分析をする上で物語化は非常に大事になってくるとは思いますが、実際に起こったことを取りこぼしてしまっては、逆に自己への理解から遠退いてしまう。と思ったので。

 

うーんごめんなさい今回は特になんか言いたいことはそんだけなので、備忘録的な意味合いが強いです。まあなんかの参考になれば。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

処方箋・本谷有希子~群像(本谷有希子)を読んで~

本谷有希子を読んだのは、大学時代に"文学イキり"がしたかったのがきっかけだった。

 

ちょうど芥川賞発表があり、本谷有希子が載っていた。

それで、「最近の芥川賞作品は大体読んでいる」というイキりがしたくて、異類婚姻譚を読む前に、本谷有希子の作品をどばっと一気に借りたのだ。

作風もなにも知らない。ただイキリのためだけに借りたので、合うのかどうかもしらない。とりあえず手当たり次第読んでみるか、という程度であった。

 

するとどうだ。

「生きてるだけで、愛」で、メンヘラーな、人間のとがった部分のその先端の先端まで、事細かに書いていて、一切フィルターにかけられていない純度の高いドロドロの自意識を直接胃にぶちこまれた。

胃もたれするくらいだった。

だから僕は、「確かに読みたかった類いの話だが、もうちょっと整理してもいいんじゃないかな」と思ったのだった。

胃もたれするぐらいの作品は確かに僕は好きだが、そういう僕でさえ、「ちょっと次の作品食べるのはしばらく待つかな…」と思うくらいの胃もたれであったからだ。

 

しかしまあそこから案外慣れてくるもので、「あの子の考えることは、変」なぞ読んでみると、ダイオキシンといびきとでぶとGカップとセックスと、もうめちゃくちゃなわけだが、それでいてとてもおもしろい。

と、僕は思い始めていた。

ダイレクトに人間の底にあるものをずどんと食らうその快感に、はまり始めていたのだ。

このあたりで、僕の中での「本谷有希子」という名が、僕のなかでひとつの「処方箋・本谷有希子」となり始めていた。

 

タイトルに書いた「処方箋」についてだが。本を読む人間はだいたい作家で本を選ぶことが多い。

同じ作家の本をいくつか読んでいたらおのずと作家の系統や得意なものがわかってくるので、どういう気分、症状の時にこの作家の本が読みたい!となるのか、という部分も、そのうち決まってくるのだ。

 

それを僕は今ここで処方箋と読んでいる。

どういう症状の時にその作家の本を読みたいか。どういう時にその作家の本を処方してほしいか。

そういうときにその作家名が入った処方箋を、本屋に提出するのだ。

なぜわざわざ処方箋と呼ぶかというのは、その症状は「だるい」とか「つらい」とか「社会不適合でつらい」とかそんなもんでなく、「この作家の本が読みたい!!!!」という、えもいわれぬ症状だからである。いわゆる「病状:その作家さんの本を読まなきゃ死ぬ病」なのである。

 

だから僕は本屋や図書館に足しげく通い、何度も「処方箋・本谷有希子」を提出し、本谷有希子作品を処方してもらっていたのだ。

 

そうして何作か読んだあとに、ついに異類婚姻譚を読んだ。

しかしその感想はずいぶんあっさりしたもので、「あ、毒が抜けたのね」といったものだった。

先ほどもいっていたけれど、純度の高い本谷有希子は好きだけれど、処方してもらってる僕でさえ、「これは他の人に処方できるのか……?」と思うくらい、毒が強かった。副作用出まくるだろと思っていた。

だからもうちょっと毒が抜けたら、一般に受け入れられるだろう、と思っていたので、芥川賞本谷有希子は、僕はてっきり「一般向けに毒を抜きましたよ~~」という作品だとおもっていたのだ。

 

本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』/僕の神様だった彼女は“大人の寓話作家”になった http://tadeku.net/79487

 

だが。ここ(上記リンク)にあるように、ぼくが気づいた頃にはすでに「本谷有希子それそのもの」から毒が抜けきっていて、もうあともどりできなくなっていたのだ。僕は運良く?Ver1の本谷有希子しか、読んでいなかったのだ。

 

今回僕がそういうことを知らずに群像を買ったときには、わくわくしながら「処方箋・本谷有希子」をレジに持っていったのだ。

だが、処方された薬に毒はなく、むしろ「毒であろうとした作品」になっていた。

別にこれはこれでいい作品なのかもしれない。だが僕は僕の中で出来上がった「処方箋・本谷有希子」を提出し、「病状:本谷有希子を読まなければ治りません」という病気を治すためにこの本を処方してもらったのだ。

それでいて「この薬はいい薬ではあるんですよ」なんていわれても違う。

胃薬を求めて風邪薬を出されたようなもので、そこに風邪薬としての効用のよさを語られても、知ったことじゃない。

だから読めども読めども、僕の中ではうわすべりしていって、心の中になにも入ってこないのであった。

 

そしてさらに悲しくなったのが、なんだか「毒であろうとした部分」が少し残っていて、人間の毒気を書こうとしている感覚はあるのだけれども、ver1しか読んでいない人間からすれば、いかにもそれは「毒であろう」としているだけで、毒そのものではない。

なにか、「人間の暗い部分、汚い部分を書こう」としているのだけれども、最も深部を知っているからこそ、今の書き方ではどうにもこうにも「浅い」と感じてしまうのである。

「本当の旅」

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」

「でぶのハッピーバースデー」

この三作品とも、である。

「本当の旅」ではその影すらなく、後半二作品ではかろうじてその毒気がちらつくも、はたと消え入ってしまう。僕の感覚ではまだ「奥さん、犬は大丈夫だよね?」が近いか。

 

いずれにせよ、ゲロ甘ドロドロ人間シチューたる本谷有希子小説はそこになく、じっくりコトコト煮込んだシチューがスッキリとした味わいでそこにあるだけだった。

 

 

結論をのべると、今回の本谷有希子の新作は「僕はまともに評価できない」という感想だ。だって求めていたものがそもそも、違ったのだから。

ver2本谷有希子を、全くといっていいほど読んでいないのだから。

だから「本谷有希子がつまらない」といっているわけではない。「私の求めている本谷有希子ではない」という話である。そこのところだけ、どうか勘違いしないでいただきたい。

書くツールを言い訳にするな

(円城塔「これはペンです」の引用含みます。ご了承ください。気になったら「これはペンです」読んでほんと。)

 

僕は書くツールをよく言い訳にする。

PCがないとか手書きができないとかなんとかかんとか。

 

だが叔父は言ったのだ。

書くツールに左右されぬ文章を書くことを目指すと。

正確にはいってはいない。ただの姪の憶測でしかない。

ただ、そのツールが血であろうが磁石であろうが岩であろうがDNA塩基配列であろうが、何かの記号を伝えるという意味での「ペン」には変わりなく、そういう意味ではそこらじゅうにペンなぞ転がっているものだ。

 

書くツールによっての味の出方なんて、はっきりいって大差はない。編集のしやすさ、文字の書ける速度の違いが出るだけで、それがそんなに文章それそのものに出るかというと甚だ疑問である。

 

叔父は、いや、姪は言った。そんな書くツールによって左右されるような貧弱な文章は叔父にも劣らぬと。そこに書こうという力強い意思さえあれば何が転がっていようが書くし、最高の書斎と十分な休暇と最高級の文房具が揃ったところで、一切書かぬ。

 

スマホ芥川賞が取れるのに、なぜ書く環境がなければよい文章がかけないという道理が通るのだろうか。

ならばともかく何のペンを取ってでもなにかしらを書くべきで、それを整理してまとめるのは冷静な人間に任せればいい。

 

純度が高ければ高いほど、文章は生きるし、なにかを狙えば狙うほど、純度はさがってどろどろに濁って死ぬ。

だから純度が高い文章が息をしているうちにこの世に生み出しておいたほうがいい。

そうしなければ頭の中に放置されたまま、最高の書斎を探している間に文章はの垂れ死ぬ。

 

純度さえ高ければ、そこに過程は関係ない。

肘ついて100円バーガー食いながらくそ騒がしいマックで女子高生の話聞きながら書こうが、病床につき血反吐まみれで書こうが、よい文章は評価されるし、くそな文章はゴミ箱に捨てられる。

 

ならばまあ、ともかくゴミ箱に投下するつもりで吐き出しておくべきで、粗大ごみとして回収され燃やされたらそれはそれで仕方ないという気持ちで生み出しておくべきなのである。

 

というわけで、この文章も、ゴミ箱に捨てるつもりで放り込んだ文章である。

気に入った人は、てきとうに拾っておいてくれ

どうするニンテンドー~ソシャゲとのんびりは合わない~

「どうぶつの森 ポケットキャンプ」は、シリーズの魅力である“スローライフ”を“労働”に変えた

 

この記事を読んだ。

たまたま「ポケ森、なぁんかようわからんけど作業ゲーっぽくてやだなー」と僕も思ってたところだったので、それを解消させる意味も含めてなんか書きたくなりました。

それで、ポケモンGO、マリオランから今回のポケ森まで、ニンテンドーの様子をみてて、色々思うとこあったので書こうと思います。

 

○そもそもソシャゲについて~コンシューマーゲームとの違い~

ややこしくなるので、ここでの「ソシャゲ」の意味を一旦定義しておきます。

スマホ、あるいはガラケーでできるゲーム

・ガチャがある

・連続ログインボーナスとかある

・期間限定イベントとか期間限定ガチャがある

だいたいこんな感じ。

まあおそらく世間で言われてるソシャゲとそんな変わらないとは思うけれども。

んで、これらの共通点ってたいがいが「時間縛りがある」ってことなんですよ。


f:id:wahoo910:20171126213240j:image

(特定のゲームの画像使うと直接批判してるみたいで嫌なんでGoogleの検索結果そんま貼りました)

連続ログインとか、期間限定イベントはいわずもがな。もちろんそれを放棄すれば問題ないんでしょうが、そういったところで今後のゲームの進行に有利なアイテムを配布したり、そこでしか手に入らないアイテム・キャラクターを配布するので、それらを放棄する場合、ゲームを放棄するに等しい。「いやいやそれなくてもやっていけてるよ」って言う人もいるのかもしれませんが、僕の感覚としてはこの「期間限定イベント」とかに力をいれてるソシャゲは多い印象です。ここで稼ぐ、といいますか。少なくとも、期間限定イベントに参加しないなら、連続ログインはしないときつい、くらいの印象はありますかね。

で、ガチャについてですが。

これも一種の時間縛りです。ガチャを引くには有料課金か、ガチャに必要なアイテムを集める必要があります。しかし、製作側としてはこれが大きな収入源になりますので、このガチャが引けるアイテム(以降ガチャ石、と呼称します)はただではそうそう入手できません。たくさんゲーム内に溢れてたら課金してくれませんからね。だから、とても時間をかければ手に入る、というパターンが多いです。一個一個はすぐ手にはいっても、ガチャを引くには何百と必要だったり、といった形で。

 

で。僕はソシャゲのここいら、あんま好きじゃないんですが、まあこれはこれでソシャゲの収入サイクルだし、それに納得して払ってる人がいてサイクルが回ってるわけなので、これはこれで…………ってのはあると思うんです。コンシューマーゲームと違うわ!!といわれても、これはこれで別のやり方でしょ、という考え自体は否定しません。

ただ、今回、コンシューマーゲームとソシャゲの大きな違いを一個だけ言わせてほしい。

 

のんびりプレイはできない

 

これはあると思います。

先ほど述べた時間縛りがほとんどの場合ありますから、「いつでもどうぞ」みたいなことはなかなか難しい。

基本的に、ゲーム内の動きをある程度制約して、「お金か時間で何とかしなさい」というものなわけです。

そして、「皆が手軽にできやすいように……」を考えた結果、「操作が簡単!!」「やりやすい!!!」という方向に走り、時間をかけてやるにしてもあまりにも単調すぎてまるで作業…………虚無……………みたいなことが多いです。ソシャゲ黎明期(モバゲータウンが流行ったガラケーメインの時代)とかはボタンタップするだけでステージ進むとか多かったですね。自由度があまりにもない。皆が皆時間かけてやって、お金一切かけずにやってしまったら経営なりたたんですからね。

つまり、ソシャゲかつ、自由度が高い…………そしてのんびりできる……………というのは、基本的になかなか両立しずらいわけです。

まあそれに対抗して、ニンテンドーが買いきり型のマリオランだとか、コロプラの白猫(時間で回復するプレイ回数、みたいなものがなく無限にできる)とか、アナザーエデンや崩壊3rd、リネージュ2みたく本格的なコンシューマーゲームに近い形を出して作業感を減らしたりしてるので、ゲーム業界もなんとかしようとはしているんですよね。


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(個人的に好きな崩壊3rd。これがスマホでそのまま動くのはわりと頑張ってると思う)

 

しかし基本スタンとしてどのスマホゲームも「ある程度の制約をして、その解除にはお金がいるよ」という感じだと思います。その「ある程度の制約」のさじ加減が違うのです。それがかなり大きな違いを生むと僕は思っています。

 

○ポケットどうぶつの森も「さじ加減」の問題

さて、今回とりあげたポケットどうぶつの森(以下ポケ森)も、たいがい言いたいことは冒頭の記事の人がいってくれたんで深くは言わないんですが、さじ加減の問題なんですよ。

おそらくニンテンドーがだしたソシャゲなんで、マリオランとかの影響受けてるんちゃうかなーとはおもいます。あれもプレイにめちゃくちゃ制限かける代わりに「一回払ったらすべて自由にできるよ!!!」という形にしたわけで、ほぼ普通のコンシューマーゲームと変わらないです。ただそれ以上に今までのソシャゲ方式が購買欲をあおるんで、そっちの方が売れちゃうんですよね。明確なソースはないですが、マリオランは結構「失敗した」みたいな声が上がりますが、一方普通のソシャゲ同様に課金型にしたファイアーエムブレムは結構売れてるみたいですから。

んで、今回のどうぶつの森で、あんまりにも無制限(買いきり型であとは自由、とか)にゲームができるようにするわけにはいかず、ある程度の制限と課金が必要………………

で、今回みたいに「作業ゲー!」とか言われることになったんだと思います。制限をかけすぎなんだと思います。

だからもうちょっと制限を解く、つまり無料でできる幅が広がればそういう批判もなくなるのかなとは思います。

 

○ソシャゲの悲しい現実

とはいえ、だからといって「無料でできる幅を広げよう!!」となるか?という点は、僕は"可能性は低い"とおもっています。

もともとファイアーエムブレムも原作ファンからかなり批判を浴びましたが順調に売り上げを出しています。それだけ今はコンシューマーゲームが売れず、ソシャゲ課金の売上がめちゃくちゃ出る時代です。

今回のように、「前のどうぶつの森と違う!!!!」というのは、ファイアーエムブレムと同じルートをたどっている気がしていて、いくら元のファンが文句をいっても、金を払う人々が出てくるんじゃないのかなぁと思います。そして、その金を払う人々に合ったものを作る形になるんじゃないかなぁと。いくら言ってもあくまでも企業ですし、売上がなきゃ話にならんですからね。

 

ただし。

ニンテンドーとしても、以前から課金型のゲームに否定的でしたし、これから他にスマホにゲームを出すにしても、課金型ゲームにコロッと衣替えすることはないとおもっています。マリオランの不調、スマホファイアーエムブレムの好調………そういうものに板挟みになって苦悶した上で今回のような形にしたんでしょうし。

任天堂 ガチャ課金に対して「射幸心を煽り高い収益性が得られても長続きしない」 | ガジェット通信 GetNews

(決算発表でここまでいうのは相当ですよね)

これから色々ニンテンドーさんは悩まれると思います。

ポケットどうぶつの森、ならびに、ニンテンドースマホゲームの展望を期待しています。

 

~おわり~

 

書くことエンジンが止まるとき

この二つ前に「書くことエンジン」の話をした。

まあ読んでなくとも、「書くことにエネルギーいるよねー」「日によって書ける文章とか勢いとか速度ちがうんちゃう~?」ぐらいの話を理解してもらえていればだいたいおっけい。

 

この「書くことエンジン」、どうにもやっぱり、今日の帰り道では「書くぞー!」と思っていたことが全くかけず、結局今書いているのは全く関係ない話だったりする。

(ちなみに帰り道では「真面目、って二種類あるよね」って話と、円城塔「誤字」読んでちょっと思ったこと、って話を書きたいと思ってた)

それをなんでかな?としばらく考えていたんだけれども、やっぱり時間をおくことで、意見の純度がどんどん下がっていくからなんだなーということが原因なのかなと思った。

 

以前「書くことエンジン」の話を書いたとき、「見せる対象、公開範囲によって書く文章は変わってくる」という話をした。

で、自分がだいたい「書こう」と思ったときは、当たり前だが自分含め誰かしらに見てもらうことを想定して書いている。

つまり、書くぞ!ってなった時点で誰かに見せることは決定してるわけである。

そうなると、その考えを「書く用」=「誰かに見せる用」に変換していく流れで、絶対どこか削ぎ落とされていく。で、考える時間が長ければ長いほど、元々のアイディアから「誰かに見せる用」にきれいに変換されてしまう。

もちろん職業で文章書くのであればそういう変換も大事だと思うのだが、そんな文章、個人的になんで書かねばあかんねん、となってしまう。元々言いたかった考えの純度、つまり自分が言いたかった部分が、どんどん薄れていってしまうからである。

そうやって純度が落ちた文章はつまらん。というか、面白かったにしても、書ききるまでにエネルギーが出ない。

文章書くの、どこが面白いかって、書いている途中にオチがわからんことだと自分では思っているんだよね。またこの前の日記(二つ前のエントリーね。書くことエンジンのやつ)を引き合いに出すけど、この前のイベントの時にノンストップで文章を書いたときも、面白いくらいに話がまとまって、きれいに完結して、純度は高いままなのに、とても見た目がよい文章になった。

しかしそれはノンストップだったから、クソ文章になるか、いい文章になるかは全然わからなかった。それがないと、自分でも「書いてみようかな」とあんまりならない。書くってことは、誰かが言ってた気がするけど、自分を見直したりとか自己分析とかの役に立たねぇかな~って試してる意味合いもあるので、バズらなくてもある程度自分のためになる、役に立つ文章にならないと、書くことエンジンまわす意味が全くもって存在しないと思っちゃうのよね。直感で。

だから、書くことエンジンが止まっちゃったり、数行書いてガス欠しちゃうのは、「自分にとって意味ねえな」とどっかで思っちゃうからなんだろうな、と考えた。

 

で。この回答も、今書いてるなかでリアルタイムで出てきたもので、これを見て自分は「なーるほど」と思うのである。こうやって書いた文章は、毎回自分とは離れた、頭の上から雄大離脱した自分が眺めながら書いたような、ふわふわ浮いた不思議な文章になる。自分から出たのが信じられないような。

読み手になるときはもちろん毎回自分はちゃんと魂が肉体に入っているので、自分を知っている他人が自分について書いたような、そんな気分になる。

逆に言えば、そんな気持ちにならない文章なんて、書いてても自分にとっちゃくそつまらんということだ。

 

だからまあ、自分としては、自分で書いた文章でそれがバズったりすることはなかなかないだろうなあ、と思う。

だって他人向けに書いているようで自分向けにかいていて、けどどこか他人向けに書いている、なんだか変な文章なんだから。

 

今回書くことエンジンは時速60kmくらいだろうか。こんぐらいのエンジンでまだまだ書けるといいなあ。久々に小説とかも、書いてみようかな。

方言バイリンガルのお話

・関西人は強い、というか関西弁が強い

仕事柄、関西の方々と絡むことが多い自分です。そうすると、偏見とかなしに、「関西人強いなぁ」と思うことがある。強いっていうのは、すごい攻めるというか。ガンガン値切ったり、要望とか意見も言うときはバシバシと言うというか。

だもんで、入社したての頃は圧倒されてました。すごいなぁ関西人………ってかんじで。

けどよくよくみてると、どうも"関西人が"強い、というよりも、"関西弁が"強いなぁ、ということが見えてきた。

関西人でも弱いひとはもちろん弱い。しかし、コッテコテの関西弁を使っているひとは不思議とつよい。そんな気がするのだ。気が強いひとを頭のなかで思い浮かべると、関西弁が強い気がする。

で、それはいったんおいておいて、周囲が関西人ばっかなので、自然と関西弁がうつってくる。

んでついにはこの間「大阪住んでたん?」と大阪の人に聞かれるほどにうつってることが判明。非常にびっくりした、、、

しかし、自分が関西弁を使うタイミングを見てると、面白いことが分かってきた。

○関西の同期と絡む時に出る

○強気に言いたい時に出る

○福岡の人(特に入社前から知ってる大学時代のひとなど)の前ではあまりでない

全部のタイミングで関西弁、ってわけではなくて、絡むひと、場面で使い方が違うのだ。

絡むひとによって違うのはなんとなくわかるかもしれんのだけど、場面で違うのは面白いなぁと思った。

それぞれの場面によって使いやすい言葉と言うのがあるってことで、それを無自覚に使いこなしてるということなので。

 

だもんで、今度福岡の方々は自分と会うときに関西弁でてないか確認してほしいんでお願いします。(ツイッターレベルの文章の長さになってしまったがおわり)

書くことエンジン、ノンストップ180km/h

・180km/h、出してきました。

滝口悠生さんのイベントにいってきました。日記を書くことについてのワークをするイベントで、一応新刊の「茄子の輝き」刊行イベント、という形ではありましたが、ほとんど日記の話と書くことについての話がメインでした。それがとても楽しくてよかったです笑
それで、とても「わかる!!!」となったのが、「人に見せる文章と、他人に見せる文章は違う」ってことです。人に見せる文章、ってなるとどうしても「これは皆わからないから説明しなきゃ」とか、「あれはつまんない」とかになりがちになります。けども、だれも読まない、自分しか読まない日記ってのは、そんなの気にしなくて良い。「とも、ビール、本」。昨日の出来事は、自分はこれだけで伝わる。この間にあるものは自分の中にあるので。
基本的に僕は文章を書くのがすきだ。だから普段からわーーーーーーっと文章を書くことが多い。そうやってると、どうしても「これはいいもんじゃないか?」「おもしろいんじゃないか?」「みてもらおう!」と思ってしまって、書き直してネットにあげたりする。しかし、たいがいが途中で頓挫する。
だって、自分が書きたくなくって、けど他人に見せるために書く文章が途中で出てくると、めちゃくちゃ面倒だから。
そんなんわしの脳内見て考えんかい!テレパシーじゃ!!!!!と、どうしてもなってしまい、しかし人様に見せるとなるとそうもいかず、結局お蔵入りになって、日記でおわる。
そんなかんじで、ずっと色々書いてきた。
ただただ書くってことは好きなんだけれども、けどっぱりその書くってことでだれかに認められたいというのがどこかにあって、しかしそれが出てきた瞬間、文章のよさってものはどっかに置いていってしまう。
だからできるだけ、書くことに対するエンジンが、ぎゅいんぎゅいんいってるときに書いた方がいいかなとおもってる。
今回の日記もそうだった。
日記を書きなさい、と言われんだけれども、自分の書くことエンジンは昨日の出来事じゃ全く作用せず、思いがけず近所の理髪店でエンジンかかってしまったので、それでががーっとかいてしまった。しかしおもしろいのが、ほんとに推敲なし思考なしでノンストップで書いたつもりが、案外まとまりのある話になって、その話が一通り終わってからの文章とか、そのはなしが始まる前の文章なんかは、考えてかいたせいかぴりっとこない。むむむって感じ。
今はラーメン食べて、少しエンジンさまして、時速60km/hくらいってところ。出るときは180km/hを公道で出そうって勢いになってしまう。もちろんそんなに続かなくて終わる。

でも今回の日記は、まさに180km/hだった。
とってもよかったなー、と思ったのが、ちゃんと突っ走れたことだ。自分は普段、人前になると絶対20km/h運転になる。ガチガチにルールに怯えて、しっかり走ろうってなってしまう。だからノンストップ180km/h文章を今回書いたのであった。
それをちゃんと滝口さんや、文章のお仕事に携わる方、文章が好きな方々の前で発表できたのはよかった。
今回書いた文章は冊子になるそうで、楽しみに待つ。そのときにまた公開しようかなとおもう。

 

・「これはペンです」の、ペン

それでちょっと思ったことが、ノンストップ180km/h文章とめちゃくちゃ丁寧20km/h文章の合間、60km/h文章を書くのがめっちゃむずいってことだ(全然間じゃないけどきにせずに)。
自分は何か書く時のわーーーーーーっと感を、ひとつにまとめたりしたい。本にしたり、したい。けども、どーーしてもそうなると20km/hめちゃくちゃ丁寧ガチガチ緊張文章になって、どっと疲れて書くのをやめてしまう。かといって、180km/h暴走文章が続くわけもない。
今くらいの、時速60kmの、のんびり文章がつづくのが、自分がすきで、長く書けるスピードだ。

それで、さらにまた思ったことが、ちょうどいいスピードで文章を書くには、「ペン」がめちゃくちゃ大事だなってことなのだ。
これは、円城塔さんの「これはペンです」的なペンだ。自分の解釈と他の人の解釈が違ったらアレなので書くと、あれはいろんな道具を使って文章を書く話だった。けども、いろんな道具=広義のペン、で文章を書くと、どうしても「ペン」に文章が振り回されてしまうってかんじの話だった。磁石に文字がかかれたやつで手紙かいてみたりとか(当然磁石なので反発したりくっついたりでちゃんとかけない)。文字が書かれた岩でかいたりとか(ショベルカーで。結局怪我して血文字で書くはめに)。塩基配列でかいたりとか(バイオテロかと疑われる)。
「これはペンです」の中では、そういう変な「ペン」で叔父さんがいろんな文章を書くのだが、叔父さんはその「ペン」に振り回されない文章を書こうと、どんな「ペン」であっても同じ文章が書こうとしている、と主人公が解釈していた。

じゃあ実際はどうだろうか。自分の周りには、結構いろんな「ペン」がある。スマホ、キーボード、PC、ボールペン、お気に入りのシャープペンシル、マジック、声、とか。そしてさらに、それをどこに出すかでもまた違ってくる。スマホなら、メール、ツイッターはてなブログ、LINE………手書きなら、ほぼ日手帳、100均のメモ帳、ハウステンボスのトラベリングマンのノート、キャンパスノート、A4用紙…………
そういう意味では、書く道具書く道具、「ペン」だけでなく、何に書くかによってぜんぜん違う文章が生まれると思うのだ。

僕はこれを全部ひっくるめて、ひとつの「ペン」としたい。スマホツイッター。PCでツイッタースマホでメール。下書きメール。Gmail。手書きのほぼ日手帳。A4。それぞれで全部違うんだと思う。
だから、ちょうどよい、ほどよい「ペン」で、書くのが大事だなぁ、と思ったのだった。

 

それだけじゃなくて、今回のイベントで大きく思ったのが、全く同じ「ペン」でも、公開範囲で違うということだ。今日ホテルでA4で書くのと、今日のイベントで同じA4で書くのは、たぶん違うから。その公開範囲までもが、「ペン」なのだ。
そうすると、その「ペン」は、自分の意思である程度書きやすさ書きにくさを操作できるってことになる。今日も、公開範囲は広かったけれども、エンジンフルスロットル180km/h文章をだすことができた。
一人で部屋にこもってかっとばす文章とそんなに変わらない文章がかけたと思う。

だから「これはペンです」で叔父さんが目指すところって、こういうところなのかなぁ、とぼんやり思ったのでありました。

今日の文章はまとまったのでここまで。

全然滝口さんの作品の話が出てこなかったので、以前読んだジミヘンをまた読み返して、あと茄子の輝きもよんで、思うとこあったらまた書きます。
一応、これより下に、「イベント終わってまだ180km/hでてるときに書いた文章」を貼っとくので、きになるひとは読んでみて、この文章との120km/hの差がどこにあるのかを読んで確かめてみてください。
案外ないかもね笑

 

 

 


(以下、180km/h文章)
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普段の自分は文章の「書く勢い」みたいなのがあって、がーーー~っとかいてさっとおわる。それ以上やるにはちょっとやすんで冷まさないと無理。そんなやり方でずっとかいてる。今日もがーーーっとかいてがーーっとおわった。終わったあと無理矢理体裁を保とうと思ったけど全然だめだった。
でもそれはだめってのは、あくまでみせるためだからだめなんであって、別に日記にダメもくそもないはずなんだけど。というわけで今回はがーーっとまたかいてみることにする。推敲はなし。いつもどおり。推敲すると色々と死んじゃうから。今日書いたのは理髪店の話だった。昨日の話をがーーっとかいていたら、美容室の話が出てきて、そこから理髪店の話か思い付いて、がーーっと書いてみた。それですごいすっきり感がして、昨日起きたことはさっぱり書かなかった。
でもすっきりした。のわりに、なんだか人に見せるみたいな、話まとまったかんじになっちゃったなぁ、と思った。
研修をしてて思ったのが、自分はまとめたり説明するのがうまいと言われる。それがどこかで勝手に働いてる気がしちゃうんだよな。だからいまもわーっとかいてるけれど、どこかでそれがさようしている気がする。
でもでも一方で、この文章もそうだし、あの日記もそうだし、がーーっとノンストップ推敲思考ほぼなしで突っ走っているのは事実だ。だってそんなことしなかったら、自分はまとめたりとか他人に見られるとかを気にするタイプ。絶対どっかで文章か死ぬ。どっかでかっこつけがめちゃくちゃ出てしまう。こういう、めちゃくちゃ、とかつかうのも、ある意味そういうかっこつけをごまかすために稚拙に使ってる感はある。
だから、だれにも干渉されない文章、だれにも見せるつもりがない文章ってのを書く場所は、滝口さんがいってたように作るべきだなぁと思うし、実際作ってる。一月に一回、あるいは一週間に一回、あるいは半年に一回、わーーーーーーっと書いている。わーーーーーーっとかけるうちにかいてしまわないと死ぬ。なんかもうでてこなくなる。ので書けるうちエンジンかかってるうちにわーーーーーーっとかく。無理矢理書いてもかかるときはかかる。かからんときはかからん。
そんなかんじて、日記かけばいいのかなぁ。うん。