言葉は水物、すぐに死ぬ

意識のうちに消失しないうちにさっさと文章にしましょう

文章書くのたのしい

今大事な2分間を逃した。

 

それはめちゃくちゃ書きたい欲と、アイディアがあふれていたタイミングだった。

そのタイミングでなぜかPCが突如謎の不調を起こし、一切書くのを許さなかった。

結果、クソつまらん文章が出ることになったら、PCをぶち壊すことにしよう。

 

ともかく、わけもなく感情があふれてきて書きだしたりなんたりアウトプットしたいというタイミングがある。

ただ、わけもない感情とは言いつつも、一応わけがあるわけなのだ。

その”わけ”とやらを知るためには、ある程度形にしてやらねばならんのだ。

 

その時にそれをどう形にするのか、というのが文章であり、小説なのだ。

 

小説のよさは、型があるのだ。

ここでいう型は、たぶん多くの読者が想像する型ではない。

クッキーの型とか、氷の型とか、そういう型なのだ。

一緒やんけ、と思うだろうがそうではない。

 

非常に抽象的でふわふわどろどろした感情の液体をいかに固めていくかというのは、クッキーの型のような、外枠がうまったものに流し込んでいくしかないのだ。

そうすることでいったんは形にできて、それをじっくり眺めることで、自分のことがわかるようになってくる。わけがわかってくるのだ、自分の感情の。

 

今もそうで、よくわからない何か書きたいよーという感情を、ブログで「小説書くってなんだろねってこと書こうね」って型に流し込んでいっているだけで、それ以外全くの—プラン、何が書きたいも何もないわけである。

 

そんなら自由に書けばいいやんけ、と思って自由に書いてみたりするのだが、そんなことをしたところで全く文章にならないし、訳の分からないものがそのまま訳のわからないものとして出てきて、まったく訳の分からんままですべてが終了してしまうのだ。

それだったら脳内で自分の感情を永久に凍らせておいても全く問題ないわけで、しかしそうしておいたところで何万年もあとに永久凍土から感情が発掘されました、なんてことはなく、ほかの感情とごちゃごちゃになってどこかへ消えてしまう。

 

だもんで、今ここでも、ともかくかくかく…ということを意識している。

そこに面白さだとかはもちろんちょっとは意識しているのだけれども、読みやすさとか起承転結は一切意識していない。

しいていうなら、型としての起と結、だろうか。意識しているのは。

 

最初とケツだけ決まったもんに、とりあえず感情の渦をぶちこんでみる。

それが僕の文章の書き方であります。

みんながどう書いているのかな~というのはちょっと気になる。

どう書いているか、みんな教えてね。