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処方箋・本谷有希子~群像(本谷有希子)を読んで~

本谷有希子を読んだのは、大学時代に"文学イキり"がしたかったのがきっかけだった。

 

ちょうど芥川賞発表があり、本谷有希子が載っていた。

それで、「最近の芥川賞作品は大体読んでいる」というイキりがしたくて、異類婚姻譚を読む前に、本谷有希子の作品をどばっと一気に借りたのだ。

作風もなにも知らない。ただイキリのためだけに借りたので、合うのかどうかもしらない。とりあえず手当たり次第読んでみるか、という程度であった。

 

するとどうだ。

「生きてるだけで、愛」で、メンヘラーな、人間のとがった部分のその先端の先端まで、事細かに書いていて、一切フィルターにかけられていない純度の高いドロドロの自意識を直接胃にぶちこまれた。

胃もたれするくらいだった。

だから僕は、「確かに読みたかった類いの話だが、もうちょっと整理してもいいんじゃないかな」と思ったのだった。

胃もたれするぐらいの作品は確かに僕は好きだが、そういう僕でさえ、「ちょっと次の作品食べるのはしばらく待つかな…」と思うくらいの胃もたれであったからだ。

 

しかしまあそこから案外慣れてくるもので、「あの子の考えることは、変」なぞ読んでみると、ダイオキシンといびきとでぶとGカップとセックスと、もうめちゃくちゃなわけだが、それでいてとてもおもしろい。

と、僕は思い始めていた。

ダイレクトに人間の底にあるものをずどんと食らうその快感に、はまり始めていたのだ。

このあたりで、僕の中での「本谷有希子」という名が、僕のなかでひとつの「処方箋・本谷有希子」となり始めていた。

 

タイトルに書いた「処方箋」についてだが。本を読む人間はだいたい作家で本を選ぶことが多い。

同じ作家の本をいくつか読んでいたらおのずと作家の系統や得意なものがわかってくるので、どういう気分、症状の時にこの作家の本が読みたい!となるのか、という部分も、そのうち決まってくるのだ。

 

それを僕は今ここで処方箋と読んでいる。

どういう症状の時にその作家の本を読みたいか。どういう時にその作家の本を処方してほしいか。

そういうときにその作家名が入った処方箋を、本屋に提出するのだ。

なぜわざわざ処方箋と呼ぶかというのは、その症状は「だるい」とか「つらい」とか「社会不適合でつらい」とかそんなもんでなく、「この作家の本が読みたい!!!!」という、えもいわれぬ症状だからである。いわゆる「病状:その作家さんの本を読まなきゃ死ぬ病」なのである。

 

だから僕は本屋や図書館に足しげく通い、何度も「処方箋・本谷有希子」を提出し、本谷有希子作品を処方してもらっていたのだ。

 

そうして何作か読んだあとに、ついに異類婚姻譚を読んだ。

しかしその感想はずいぶんあっさりしたもので、「あ、毒が抜けたのね」といったものだった。

先ほどもいっていたけれど、純度の高い本谷有希子は好きだけれど、処方してもらってる僕でさえ、「これは他の人に処方できるのか……?」と思うくらい、毒が強かった。副作用出まくるだろと思っていた。

だからもうちょっと毒が抜けたら、一般に受け入れられるだろう、と思っていたので、芥川賞本谷有希子は、僕はてっきり「一般向けに毒を抜きましたよ~~」という作品だとおもっていたのだ。

 

本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』/僕の神様だった彼女は“大人の寓話作家”になった http://tadeku.net/79487

 

だが。ここ(上記リンク)にあるように、ぼくが気づいた頃にはすでに「本谷有希子それそのもの」から毒が抜けきっていて、もうあともどりできなくなっていたのだ。僕は運良く?Ver1の本谷有希子しか、読んでいなかったのだ。

 

今回僕がそういうことを知らずに群像を買ったときには、わくわくしながら「処方箋・本谷有希子」をレジに持っていったのだ。

だが、処方された薬に毒はなく、むしろ「毒であろうとした作品」になっていた。

別にこれはこれでいい作品なのかもしれない。だが僕は僕の中で出来上がった「処方箋・本谷有希子」を提出し、「病状:本谷有希子を読まなければ治りません」という病気を治すためにこの本を処方してもらったのだ。

それでいて「この薬はいい薬ではあるんですよ」なんていわれても違う。

胃薬を求めて風邪薬を出されたようなもので、そこに風邪薬としての効用のよさを語られても、知ったことじゃない。

だから読めども読めども、僕の中ではうわすべりしていって、心の中になにも入ってこないのであった。

 

そしてさらに悲しくなったのが、なんだか「毒であろうとした部分」が少し残っていて、人間の毒気を書こうとしている感覚はあるのだけれども、ver1しか読んでいない人間からすれば、いかにもそれは「毒であろう」としているだけで、毒そのものではない。

なにか、「人間の暗い部分、汚い部分を書こう」としているのだけれども、最も深部を知っているからこそ、今の書き方ではどうにもこうにも「浅い」と感じてしまうのである。

「本当の旅」

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」

「でぶのハッピーバースデー」

この三作品とも、である。

「本当の旅」ではその影すらなく、後半二作品ではかろうじてその毒気がちらつくも、はたと消え入ってしまう。僕の感覚ではまだ「奥さん、犬は大丈夫だよね?」が近いか。

 

いずれにせよ、ゲロ甘ドロドロ人間シチューたる本谷有希子小説はそこになく、じっくりコトコト煮込んだシチューがスッキリとした味わいでそこにあるだけだった。

 

 

結論をのべると、今回の本谷有希子の新作は「僕はまともに評価できない」という感想だ。だって求めていたものがそもそも、違ったのだから。

ver2本谷有希子を、全くといっていいほど読んでいないのだから。

だから「本谷有希子がつまらない」といっているわけではない。「私の求めている本谷有希子ではない」という話である。そこのところだけ、どうか勘違いしないでいただきたい。