ばしこ氏のブログ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

処方箋・本谷有希子~群像(本谷有希子)を読んで~

本谷有希子を読んだのは、大学時代に"文学イキり"がしたかったのがきっかけだった。

 

ちょうど芥川賞発表があり、本谷有希子が載っていた。

それで、「最近の芥川賞作品は大体読んでいる」というイキりがしたくて、異類婚姻譚を読む前に、本谷有希子の作品をどばっと一気に借りたのだ。

作風もなにも知らない。ただイキリのためだけに借りたので、合うのかどうかもしらない。とりあえず手当たり次第読んでみるか、という程度であった。

 

するとどうだ。

「生きてるだけで、愛」で、メンヘラーな、人間のとがった部分のその先端の先端まで、事細かに書いていて、一切フィルターにかけられていない純度の高いドロドロの自意識を直接胃にぶちこまれた。

胃もたれするくらいだった。

だから僕は、「確かに読みたかった類いの話だが、もうちょっと整理してもいいんじゃないかな」と思ったのだった。

胃もたれするぐらいの作品は確かに僕は好きだが、そういう僕でさえ、「ちょっと次の作品食べるのはしばらく待つかな…」と思うくらいの胃もたれであったからだ。

 

しかしまあそこから案外慣れてくるもので、「あの子の考えることは、変」なぞ読んでみると、ダイオキシンといびきとでぶとGカップとセックスと、もうめちゃくちゃなわけだが、それでいてとてもおもしろい。

と、僕は思い始めていた。

ダイレクトに人間の底にあるものをずどんと食らうその快感に、はまり始めていたのだ。

このあたりで、僕の中での「本谷有希子」という名が、僕のなかでひとつの「処方箋・本谷有希子」となり始めていた。

 

タイトルに書いた「処方箋」についてだが。本を読む人間はだいたい作家で本を選ぶことが多い。

同じ作家の本をいくつか読んでいたらおのずと作家の系統や得意なものがわかってくるので、どういう気分、症状の時にこの作家の本が読みたい!となるのか、という部分も、そのうち決まってくるのだ。

 

それを僕は今ここで処方箋と読んでいる。

どういう症状の時にその作家の本を読みたいか。どういう時にその作家の本を処方してほしいか。

そういうときにその作家名が入った処方箋を、本屋に提出するのだ。

なぜわざわざ処方箋と呼ぶかというのは、その症状は「だるい」とか「つらい」とか「社会不適合でつらい」とかそんなもんでなく、「この作家の本が読みたい!!!!」という、えもいわれぬ症状だからである。いわゆる「病状:その作家さんの本を読まなきゃ死ぬ病」なのである。

 

だから僕は本屋や図書館に足しげく通い、何度も「処方箋・本谷有希子」を提出し、本谷有希子作品を処方してもらっていたのだ。

 

そうして何作か読んだあとに、ついに異類婚姻譚を読んだ。

しかしその感想はずいぶんあっさりしたもので、「あ、毒が抜けたのね」といったものだった。

先ほどもいっていたけれど、純度の高い本谷有希子は好きだけれど、処方してもらってる僕でさえ、「これは他の人に処方できるのか……?」と思うくらい、毒が強かった。副作用出まくるだろと思っていた。

だからもうちょっと毒が抜けたら、一般に受け入れられるだろう、と思っていたので、芥川賞本谷有希子は、僕はてっきり「一般向けに毒を抜きましたよ~~」という作品だとおもっていたのだ。

 

本谷有希子『静かに、ねぇ、静かに』/僕の神様だった彼女は“大人の寓話作家”になった http://tadeku.net/79487

 

だが。ここ(上記リンク)にあるように、ぼくが気づいた頃にはすでに「本谷有希子それそのもの」から毒が抜けきっていて、もうあともどりできなくなっていたのだ。僕は運良く?Ver1の本谷有希子しか、読んでいなかったのだ。

 

今回僕がそういうことを知らずに群像を買ったときには、わくわくしながら「処方箋・本谷有希子」をレジに持っていったのだ。

だが、処方された薬に毒はなく、むしろ「毒であろうとした作品」になっていた。

別にこれはこれでいい作品なのかもしれない。だが僕は僕の中で出来上がった「処方箋・本谷有希子」を提出し、「病状:本谷有希子を読まなければ治りません」という病気を治すためにこの本を処方してもらったのだ。

それでいて「この薬はいい薬ではあるんですよ」なんていわれても違う。

胃薬を求めて風邪薬を出されたようなもので、そこに風邪薬としての効用のよさを語られても、知ったことじゃない。

だから読めども読めども、僕の中ではうわすべりしていって、心の中になにも入ってこないのであった。

 

そしてさらに悲しくなったのが、なんだか「毒であろうとした部分」が少し残っていて、人間の毒気を書こうとしている感覚はあるのだけれども、ver1しか読んでいない人間からすれば、いかにもそれは「毒であろう」としているだけで、毒そのものではない。

なにか、「人間の暗い部分、汚い部分を書こう」としているのだけれども、最も深部を知っているからこそ、今の書き方ではどうにもこうにも「浅い」と感じてしまうのである。

「本当の旅」

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」

「でぶのハッピーバースデー」

この三作品とも、である。

「本当の旅」ではその影すらなく、後半二作品ではかろうじてその毒気がちらつくも、はたと消え入ってしまう。僕の感覚ではまだ「奥さん、犬は大丈夫だよね?」が近いか。

 

いずれにせよ、ゲロ甘ドロドロ人間シチューたる本谷有希子小説はそこになく、じっくりコトコト煮込んだシチューがスッキリとした味わいでそこにあるだけだった。

 

 

結論をのべると、今回の本谷有希子の新作は「僕はまともに評価できない」という感想だ。だって求めていたものがそもそも、違ったのだから。

ver2本谷有希子を、全くといっていいほど読んでいないのだから。

だから「本谷有希子がつまらない」といっているわけではない。「私の求めている本谷有希子ではない」という話である。そこのところだけ、どうか勘違いしないでいただきたい。

書くツールを言い訳にするな

(円城塔「これはペンです」の引用含みます。ご了承ください。気になったら「これはペンです」読んでほんと。)

 

僕は書くツールをよく言い訳にする。

PCがないとか手書きができないとかなんとかかんとか。

 

だが叔父は言ったのだ。

書くツールに左右されぬ文章を書くことを目指すと。

正確にはいってはいない。ただの姪の憶測でしかない。

ただ、そのツールが血であろうが磁石であろうが岩であろうがDNA塩基配列であろうが、何かの記号を伝えるという意味での「ペン」には変わりなく、そういう意味ではそこらじゅうにペンなぞ転がっているものだ。

 

書くツールによっての味の出方なんて、はっきりいって大差はない。編集のしやすさ、文字の書ける速度の違いが出るだけで、それがそんなに文章それそのものに出るかというと甚だ疑問である。

 

叔父は、いや、姪は言った。そんな書くツールによって左右されるような貧弱な文章は叔父にも劣らぬと。そこに書こうという力強い意思さえあれば何が転がっていようが書くし、最高の書斎と十分な休暇と最高級の文房具が揃ったところで、一切書かぬ。

 

スマホ芥川賞が取れるのに、なぜ書く環境がなければよい文章がかけないという道理が通るのだろうか。

ならばともかく何のペンを取ってでもなにかしらを書くべきで、それを整理してまとめるのは冷静な人間に任せればいい。

 

純度が高ければ高いほど、文章は生きるし、なにかを狙えば狙うほど、純度はさがってどろどろに濁って死ぬ。

だから純度が高い文章が息をしているうちにこの世に生み出しておいたほうがいい。

そうしなければ頭の中に放置されたまま、最高の書斎を探している間に文章はの垂れ死ぬ。

 

純度さえ高ければ、そこに過程は関係ない。

肘ついて100円バーガー食いながらくそ騒がしいマックで女子高生の話聞きながら書こうが、病床につき血反吐まみれで書こうが、よい文章は評価されるし、くそな文章はゴミ箱に捨てられる。

 

ならばまあ、ともかくゴミ箱に投下するつもりで吐き出しておくべきで、粗大ごみとして回収され燃やされたらそれはそれで仕方ないという気持ちで生み出しておくべきなのである。

 

というわけで、この文章も、ゴミ箱に捨てるつもりで放り込んだ文章である。

気に入った人は、てきとうに拾っておいてくれ

どうするニンテンドー~ソシャゲとのんびりは合わない~

「どうぶつの森 ポケットキャンプ」は、シリーズの魅力である“スローライフ”を“労働”に変えた

 

この記事を読んだ。

たまたま「ポケ森、なぁんかようわからんけど作業ゲーっぽくてやだなー」と僕も思ってたところだったので、それを解消させる意味も含めてなんか書きたくなりました。

それで、ポケモンGO、マリオランから今回のポケ森まで、ニンテンドーの様子をみてて、色々思うとこあったので書こうと思います。

 

○そもそもソシャゲについて~コンシューマーゲームとの違い~

ややこしくなるので、ここでの「ソシャゲ」の意味を一旦定義しておきます。

スマホ、あるいはガラケーでできるゲーム

・ガチャがある

・連続ログインボーナスとかある

・期間限定イベントとか期間限定ガチャがある

だいたいこんな感じ。

まあおそらく世間で言われてるソシャゲとそんな変わらないとは思うけれども。

んで、これらの共通点ってたいがいが「時間縛りがある」ってことなんですよ。


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(特定のゲームの画像使うと直接批判してるみたいで嫌なんでGoogleの検索結果そんま貼りました)

連続ログインとか、期間限定イベントはいわずもがな。もちろんそれを放棄すれば問題ないんでしょうが、そういったところで今後のゲームの進行に有利なアイテムを配布したり、そこでしか手に入らないアイテム・キャラクターを配布するので、それらを放棄する場合、ゲームを放棄するに等しい。「いやいやそれなくてもやっていけてるよ」って言う人もいるのかもしれませんが、僕の感覚としてはこの「期間限定イベント」とかに力をいれてるソシャゲは多い印象です。ここで稼ぐ、といいますか。少なくとも、期間限定イベントに参加しないなら、連続ログインはしないときつい、くらいの印象はありますかね。

で、ガチャについてですが。

これも一種の時間縛りです。ガチャを引くには有料課金か、ガチャに必要なアイテムを集める必要があります。しかし、製作側としてはこれが大きな収入源になりますので、このガチャが引けるアイテム(以降ガチャ石、と呼称します)はただではそうそう入手できません。たくさんゲーム内に溢れてたら課金してくれませんからね。だから、とても時間をかければ手に入る、というパターンが多いです。一個一個はすぐ手にはいっても、ガチャを引くには何百と必要だったり、といった形で。

 

で。僕はソシャゲのここいら、あんま好きじゃないんですが、まあこれはこれでソシャゲの収入サイクルだし、それに納得して払ってる人がいてサイクルが回ってるわけなので、これはこれで…………ってのはあると思うんです。コンシューマーゲームと違うわ!!といわれても、これはこれで別のやり方でしょ、という考え自体は否定しません。

ただ、今回、コンシューマーゲームとソシャゲの大きな違いを一個だけ言わせてほしい。

 

のんびりプレイはできない

 

これはあると思います。

先ほど述べた時間縛りがほとんどの場合ありますから、「いつでもどうぞ」みたいなことはなかなか難しい。

基本的に、ゲーム内の動きをある程度制約して、「お金か時間で何とかしなさい」というものなわけです。

そして、「皆が手軽にできやすいように……」を考えた結果、「操作が簡単!!」「やりやすい!!!」という方向に走り、時間をかけてやるにしてもあまりにも単調すぎてまるで作業…………虚無……………みたいなことが多いです。ソシャゲ黎明期(モバゲータウンが流行ったガラケーメインの時代)とかはボタンタップするだけでステージ進むとか多かったですね。自由度があまりにもない。皆が皆時間かけてやって、お金一切かけずにやってしまったら経営なりたたんですからね。

つまり、ソシャゲかつ、自由度が高い…………そしてのんびりできる……………というのは、基本的になかなか両立しずらいわけです。

まあそれに対抗して、ニンテンドーが買いきり型のマリオランだとか、コロプラの白猫(時間で回復するプレイ回数、みたいなものがなく無限にできる)とか、アナザーエデンや崩壊3rd、リネージュ2みたく本格的なコンシューマーゲームに近い形を出して作業感を減らしたりしてるので、ゲーム業界もなんとかしようとはしているんですよね。


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(個人的に好きな崩壊3rd。これがスマホでそのまま動くのはわりと頑張ってると思う)

 

しかし基本スタンとしてどのスマホゲームも「ある程度の制約をして、その解除にはお金がいるよ」という感じだと思います。その「ある程度の制約」のさじ加減が違うのです。それがかなり大きな違いを生むと僕は思っています。

 

○ポケットどうぶつの森も「さじ加減」の問題

さて、今回とりあげたポケットどうぶつの森(以下ポケ森)も、たいがい言いたいことは冒頭の記事の人がいってくれたんで深くは言わないんですが、さじ加減の問題なんですよ。

おそらくニンテンドーがだしたソシャゲなんで、マリオランとかの影響受けてるんちゃうかなーとはおもいます。あれもプレイにめちゃくちゃ制限かける代わりに「一回払ったらすべて自由にできるよ!!!」という形にしたわけで、ほぼ普通のコンシューマーゲームと変わらないです。ただそれ以上に今までのソシャゲ方式が購買欲をあおるんで、そっちの方が売れちゃうんですよね。明確なソースはないですが、マリオランは結構「失敗した」みたいな声が上がりますが、一方普通のソシャゲ同様に課金型にしたファイアーエムブレムは結構売れてるみたいですから。

んで、今回のどうぶつの森で、あんまりにも無制限(買いきり型であとは自由、とか)にゲームができるようにするわけにはいかず、ある程度の制限と課金が必要………………

で、今回みたいに「作業ゲー!」とか言われることになったんだと思います。制限をかけすぎなんだと思います。

だからもうちょっと制限を解く、つまり無料でできる幅が広がればそういう批判もなくなるのかなとは思います。

 

○ソシャゲの悲しい現実

とはいえ、だからといって「無料でできる幅を広げよう!!」となるか?という点は、僕は"可能性は低い"とおもっています。

もともとファイアーエムブレムも原作ファンからかなり批判を浴びましたが順調に売り上げを出しています。それだけ今はコンシューマーゲームが売れず、ソシャゲ課金の売上がめちゃくちゃ出る時代です。

今回のように、「前のどうぶつの森と違う!!!!」というのは、ファイアーエムブレムと同じルートをたどっている気がしていて、いくら元のファンが文句をいっても、金を払う人々が出てくるんじゃないのかなぁと思います。そして、その金を払う人々に合ったものを作る形になるんじゃないかなぁと。いくら言ってもあくまでも企業ですし、売上がなきゃ話にならんですからね。

 

ただし。

ニンテンドーとしても、以前から課金型のゲームに否定的でしたし、これから他にスマホにゲームを出すにしても、課金型ゲームにコロッと衣替えすることはないとおもっています。マリオランの不調、スマホファイアーエムブレムの好調………そういうものに板挟みになって苦悶した上で今回のような形にしたんでしょうし。

任天堂 ガチャ課金に対して「射幸心を煽り高い収益性が得られても長続きしない」 | ガジェット通信 GetNews

(決算発表でここまでいうのは相当ですよね)

これから色々ニンテンドーさんは悩まれると思います。

ポケットどうぶつの森、ならびに、ニンテンドースマホゲームの展望を期待しています。

 

~おわり~

 

書くことエンジンが止まるとき

この二つ前に「書くことエンジン」の話をした。

まあ読んでなくとも、「書くことにエネルギーいるよねー」「日によって書ける文章とか勢いとか速度ちがうんちゃう~?」ぐらいの話を理解してもらえていればだいたいおっけい。

 

この「書くことエンジン」、どうにもやっぱり、今日の帰り道では「書くぞー!」と思っていたことが全くかけず、結局今書いているのは全く関係ない話だったりする。

(ちなみに帰り道では「真面目、って二種類あるよね」って話と、円城塔「誤字」読んでちょっと思ったこと、って話を書きたいと思ってた)

それをなんでかな?としばらく考えていたんだけれども、やっぱり時間をおくことで、意見の純度がどんどん下がっていくからなんだなーということが原因なのかなと思った。

 

以前「書くことエンジン」の話を書いたとき、「見せる対象、公開範囲によって書く文章は変わってくる」という話をした。

で、自分がだいたい「書こう」と思ったときは、当たり前だが自分含め誰かしらに見てもらうことを想定して書いている。

つまり、書くぞ!ってなった時点で誰かに見せることは決定してるわけである。

そうなると、その考えを「書く用」=「誰かに見せる用」に変換していく流れで、絶対どこか削ぎ落とされていく。で、考える時間が長ければ長いほど、元々のアイディアから「誰かに見せる用」にきれいに変換されてしまう。

もちろん職業で文章書くのであればそういう変換も大事だと思うのだが、そんな文章、個人的になんで書かねばあかんねん、となってしまう。元々言いたかった考えの純度、つまり自分が言いたかった部分が、どんどん薄れていってしまうからである。

そうやって純度が落ちた文章はつまらん。というか、面白かったにしても、書ききるまでにエネルギーが出ない。

文章書くの、どこが面白いかって、書いている途中にオチがわからんことだと自分では思っているんだよね。またこの前の日記(二つ前のエントリーね。書くことエンジンのやつ)を引き合いに出すけど、この前のイベントの時にノンストップで文章を書いたときも、面白いくらいに話がまとまって、きれいに完結して、純度は高いままなのに、とても見た目がよい文章になった。

しかしそれはノンストップだったから、クソ文章になるか、いい文章になるかは全然わからなかった。それがないと、自分でも「書いてみようかな」とあんまりならない。書くってことは、誰かが言ってた気がするけど、自分を見直したりとか自己分析とかの役に立たねぇかな~って試してる意味合いもあるので、バズらなくてもある程度自分のためになる、役に立つ文章にならないと、書くことエンジンまわす意味が全くもって存在しないと思っちゃうのよね。直感で。

だから、書くことエンジンが止まっちゃったり、数行書いてガス欠しちゃうのは、「自分にとって意味ねえな」とどっかで思っちゃうからなんだろうな、と考えた。

 

で。この回答も、今書いてるなかでリアルタイムで出てきたもので、これを見て自分は「なーるほど」と思うのである。こうやって書いた文章は、毎回自分とは離れた、頭の上から雄大離脱した自分が眺めながら書いたような、ふわふわ浮いた不思議な文章になる。自分から出たのが信じられないような。

読み手になるときはもちろん毎回自分はちゃんと魂が肉体に入っているので、自分を知っている他人が自分について書いたような、そんな気分になる。

逆に言えば、そんな気持ちにならない文章なんて、書いてても自分にとっちゃくそつまらんということだ。

 

だからまあ、自分としては、自分で書いた文章でそれがバズったりすることはなかなかないだろうなあ、と思う。

だって他人向けに書いているようで自分向けにかいていて、けどどこか他人向けに書いている、なんだか変な文章なんだから。

 

今回書くことエンジンは時速60kmくらいだろうか。こんぐらいのエンジンでまだまだ書けるといいなあ。久々に小説とかも、書いてみようかな。

方言バイリンガルのお話

・関西人は強い、というか関西弁が強い

仕事柄、関西の方々と絡むことが多い自分です。そうすると、偏見とかなしに、「関西人強いなぁ」と思うことがある。強いっていうのは、すごい攻めるというか。ガンガン値切ったり、要望とか意見も言うときはバシバシと言うというか。

だもんで、入社したての頃は圧倒されてました。すごいなぁ関西人………ってかんじで。

けどよくよくみてると、どうも"関西人が"強い、というよりも、"関西弁が"強いなぁ、ということが見えてきた。

関西人でも弱いひとはもちろん弱い。しかし、コッテコテの関西弁を使っているひとは不思議とつよい。そんな気がするのだ。気が強いひとを頭のなかで思い浮かべると、関西弁が強い気がする。

で、それはいったんおいておいて、周囲が関西人ばっかなので、自然と関西弁がうつってくる。

んでついにはこの間「大阪住んでたん?」と大阪の人に聞かれるほどにうつってることが判明。非常にびっくりした、、、

しかし、自分が関西弁を使うタイミングを見てると、面白いことが分かってきた。

○関西の同期と絡む時に出る

○強気に言いたい時に出る

○福岡の人(特に入社前から知ってる大学時代のひとなど)の前ではあまりでない

全部のタイミングで関西弁、ってわけではなくて、絡むひと、場面で使い方が違うのだ。

絡むひとによって違うのはなんとなくわかるかもしれんのだけど、場面で違うのは面白いなぁと思った。

それぞれの場面によって使いやすい言葉と言うのがあるってことで、それを無自覚に使いこなしてるということなので。

 

だもんで、今度福岡の方々は自分と会うときに関西弁でてないか確認してほしいんでお願いします。(ツイッターレベルの文章の長さになってしまったがおわり)

書くことエンジン、ノンストップ180km/h

・180km/h、出してきました。

滝口悠生さんのイベントにいってきました。日記を書くことについてのワークをするイベントで、一応新刊の「茄子の輝き」刊行イベント、という形ではありましたが、ほとんど日記の話と書くことについての話がメインでした。それがとても楽しくてよかったです笑
それで、とても「わかる!!!」となったのが、「人に見せる文章と、他人に見せる文章は違う」ってことです。人に見せる文章、ってなるとどうしても「これは皆わからないから説明しなきゃ」とか、「あれはつまんない」とかになりがちになります。けども、だれも読まない、自分しか読まない日記ってのは、そんなの気にしなくて良い。「とも、ビール、本」。昨日の出来事は、自分はこれだけで伝わる。この間にあるものは自分の中にあるので。
基本的に僕は文章を書くのがすきだ。だから普段からわーーーーーーっと文章を書くことが多い。そうやってると、どうしても「これはいいもんじゃないか?」「おもしろいんじゃないか?」「みてもらおう!」と思ってしまって、書き直してネットにあげたりする。しかし、たいがいが途中で頓挫する。
だって、自分が書きたくなくって、けど他人に見せるために書く文章が途中で出てくると、めちゃくちゃ面倒だから。
そんなんわしの脳内見て考えんかい!テレパシーじゃ!!!!!と、どうしてもなってしまい、しかし人様に見せるとなるとそうもいかず、結局お蔵入りになって、日記でおわる。
そんなかんじで、ずっと色々書いてきた。
ただただ書くってことは好きなんだけれども、けどっぱりその書くってことでだれかに認められたいというのがどこかにあって、しかしそれが出てきた瞬間、文章のよさってものはどっかに置いていってしまう。
だからできるだけ、書くことに対するエンジンが、ぎゅいんぎゅいんいってるときに書いた方がいいかなとおもってる。
今回の日記もそうだった。
日記を書きなさい、と言われんだけれども、自分の書くことエンジンは昨日の出来事じゃ全く作用せず、思いがけず近所の理髪店でエンジンかかってしまったので、それでががーっとかいてしまった。しかしおもしろいのが、ほんとに推敲なし思考なしでノンストップで書いたつもりが、案外まとまりのある話になって、その話が一通り終わってからの文章とか、そのはなしが始まる前の文章なんかは、考えてかいたせいかぴりっとこない。むむむって感じ。
今はラーメン食べて、少しエンジンさまして、時速60km/hくらいってところ。出るときは180km/hを公道で出そうって勢いになってしまう。もちろんそんなに続かなくて終わる。

でも今回の日記は、まさに180km/hだった。
とってもよかったなー、と思ったのが、ちゃんと突っ走れたことだ。自分は普段、人前になると絶対20km/h運転になる。ガチガチにルールに怯えて、しっかり走ろうってなってしまう。だからノンストップ180km/h文章を今回書いたのであった。
それをちゃんと滝口さんや、文章のお仕事に携わる方、文章が好きな方々の前で発表できたのはよかった。
今回書いた文章は冊子になるそうで、楽しみに待つ。そのときにまた公開しようかなとおもう。

 

・「これはペンです」の、ペン

それでちょっと思ったことが、ノンストップ180km/h文章とめちゃくちゃ丁寧20km/h文章の合間、60km/h文章を書くのがめっちゃむずいってことだ(全然間じゃないけどきにせずに)。
自分は何か書く時のわーーーーーーっと感を、ひとつにまとめたりしたい。本にしたり、したい。けども、どーーしてもそうなると20km/hめちゃくちゃ丁寧ガチガチ緊張文章になって、どっと疲れて書くのをやめてしまう。かといって、180km/h暴走文章が続くわけもない。
今くらいの、時速60kmの、のんびり文章がつづくのが、自分がすきで、長く書けるスピードだ。

それで、さらにまた思ったことが、ちょうどいいスピードで文章を書くには、「ペン」がめちゃくちゃ大事だなってことなのだ。
これは、円城塔さんの「これはペンです」的なペンだ。自分の解釈と他の人の解釈が違ったらアレなので書くと、あれはいろんな道具を使って文章を書く話だった。けども、いろんな道具=広義のペン、で文章を書くと、どうしても「ペン」に文章が振り回されてしまうってかんじの話だった。磁石に文字がかかれたやつで手紙かいてみたりとか(当然磁石なので反発したりくっついたりでちゃんとかけない)。文字が書かれた岩でかいたりとか(ショベルカーで。結局怪我して血文字で書くはめに)。塩基配列でかいたりとか(バイオテロかと疑われる)。
「これはペンです」の中では、そういう変な「ペン」で叔父さんがいろんな文章を書くのだが、叔父さんはその「ペン」に振り回されない文章を書こうと、どんな「ペン」であっても同じ文章が書こうとしている、と主人公が解釈していた。

じゃあ実際はどうだろうか。自分の周りには、結構いろんな「ペン」がある。スマホ、キーボード、PC、ボールペン、お気に入りのシャープペンシル、マジック、声、とか。そしてさらに、それをどこに出すかでもまた違ってくる。スマホなら、メール、ツイッターはてなブログ、LINE………手書きなら、ほぼ日手帳、100均のメモ帳、ハウステンボスのトラベリングマンのノート、キャンパスノート、A4用紙…………
そういう意味では、書く道具書く道具、「ペン」だけでなく、何に書くかによってぜんぜん違う文章が生まれると思うのだ。

僕はこれを全部ひっくるめて、ひとつの「ペン」としたい。スマホツイッター。PCでツイッタースマホでメール。下書きメール。Gmail。手書きのほぼ日手帳。A4。それぞれで全部違うんだと思う。
だから、ちょうどよい、ほどよい「ペン」で、書くのが大事だなぁ、と思ったのだった。

 

それだけじゃなくて、今回のイベントで大きく思ったのが、全く同じ「ペン」でも、公開範囲で違うということだ。今日ホテルでA4で書くのと、今日のイベントで同じA4で書くのは、たぶん違うから。その公開範囲までもが、「ペン」なのだ。
そうすると、その「ペン」は、自分の意思である程度書きやすさ書きにくさを操作できるってことになる。今日も、公開範囲は広かったけれども、エンジンフルスロットル180km/h文章をだすことができた。
一人で部屋にこもってかっとばす文章とそんなに変わらない文章がかけたと思う。

だから「これはペンです」で叔父さんが目指すところって、こういうところなのかなぁ、とぼんやり思ったのでありました。

今日の文章はまとまったのでここまで。

全然滝口さんの作品の話が出てこなかったので、以前読んだジミヘンをまた読み返して、あと茄子の輝きもよんで、思うとこあったらまた書きます。
一応、これより下に、「イベント終わってまだ180km/hでてるときに書いた文章」を貼っとくので、きになるひとは読んでみて、この文章との120km/hの差がどこにあるのかを読んで確かめてみてください。
案外ないかもね笑

 

 

 


(以下、180km/h文章)
***********

普段の自分は文章の「書く勢い」みたいなのがあって、がーーー~っとかいてさっとおわる。それ以上やるにはちょっとやすんで冷まさないと無理。そんなやり方でずっとかいてる。今日もがーーーっとかいてがーーっとおわった。終わったあと無理矢理体裁を保とうと思ったけど全然だめだった。
でもそれはだめってのは、あくまでみせるためだからだめなんであって、別に日記にダメもくそもないはずなんだけど。というわけで今回はがーーっとまたかいてみることにする。推敲はなし。いつもどおり。推敲すると色々と死んじゃうから。今日書いたのは理髪店の話だった。昨日の話をがーーっとかいていたら、美容室の話が出てきて、そこから理髪店の話か思い付いて、がーーっと書いてみた。それですごいすっきり感がして、昨日起きたことはさっぱり書かなかった。
でもすっきりした。のわりに、なんだか人に見せるみたいな、話まとまったかんじになっちゃったなぁ、と思った。
研修をしてて思ったのが、自分はまとめたり説明するのがうまいと言われる。それがどこかで勝手に働いてる気がしちゃうんだよな。だからいまもわーっとかいてるけれど、どこかでそれがさようしている気がする。
でもでも一方で、この文章もそうだし、あの日記もそうだし、がーーっとノンストップ推敲思考ほぼなしで突っ走っているのは事実だ。だってそんなことしなかったら、自分はまとめたりとか他人に見られるとかを気にするタイプ。絶対どっかで文章か死ぬ。どっかでかっこつけがめちゃくちゃ出てしまう。こういう、めちゃくちゃ、とかつかうのも、ある意味そういうかっこつけをごまかすために稚拙に使ってる感はある。
だから、だれにも干渉されない文章、だれにも見せるつもりがない文章ってのを書く場所は、滝口さんがいってたように作るべきだなぁと思うし、実際作ってる。一月に一回、あるいは一週間に一回、あるいは半年に一回、わーーーーーーっと書いている。わーーーーーーっとかけるうちにかいてしまわないと死ぬ。なんかもうでてこなくなる。ので書けるうちエンジンかかってるうちにわーーーーーーっとかく。無理矢理書いてもかかるときはかかる。かからんときはかからん。
そんなかんじて、日記かけばいいのかなぁ。うん。

伊藤計劃作品アニメ化、大失敗!!!!!~メディアの違いを理解せよ~

(注意:虐殺器官のネタバレありです。原作の映画化にイチャモンつける話なので、原作読んで「映画どうかな」て気になってた人、映画観て「原作どうかな」て思ってた人にオススメです。まあネタバレ気にしないなら特に気にせずどうぞ)

 

先日、滑り込みで虐殺器官を見てまいりました。

あーーーーーーー。

ってなりました。

うん。なんか、言葉に困る。まあ、それなりに原作再現してて、よかったんだけど…

 

うーん、ってしばらく悩んだ挙句、一つの答えが。

 

制作側のやりたいことが半端で、はっきりしなさすぎる

ぶっちゃけ、Project Itoh全体がそんな感じだ。

 

これに尽きる。順番に説明していきましょう。

 

 

(以下、ネタバレですがっつり)

 

 

 

 

 

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

 

虐殺器官の評価

全体の評価は一旦置いておいて。とりあえず虐殺器官の話からしましょう。

結構原作再現のシーンあったんですよ。「地獄はここにあります。頭の中の、脳みその中に」とか、「不条理なもんは全部カフカだ」とか、台詞で印象に残るものはまあまあ使われてた。けどいくつか抜けてるものがありましたね。

抜けてる部分と変更点に関して紹介しましょう。

①クラヴィスの母親のくだり(夢の話含め)がガッツリ抜けている

②アレックスが自殺じゃなく、最初の任務で暴走して殺されてる

③カウンセリングのシーンは最後の少年少女を殺すためのとこ以外カット

④第四部3ほぼカット

⑤映画冒頭のほうにサラエボの核のシーンが書かれる(ジョンポールがニュースでそれを知るシーンも)

⑥一回目ジョンポールを捕まえたシーン、列車で輸送でなく、ヘリでそのまま輸送になっている

⑦虐殺の文法が入ったSDカードみたいなもんがある(それをルツィアが死ぬ直前のシーンでクラヴィスが手にする)

⑧最後のジョンポールと二人で草原で会話するシーンで、なにか(虐殺の文法の話を世界にするって話?ここはぼかしてる。さすがに覚えていない)「お前にしかできない」と言い、クラヴィスがジョンポールを殺す

 

ま、ざっとこんな感じですかね。細かい部分見逃しあると思いますし、説明しずらくどうでもよさげなとこは書いてません。

さて、先に言っておきますが、小説をアニメ化するにあたって、ある程度カットせざるを得ないのは承知しています。にしても、もうちょいなんとかならんかったのか…って感じでした。

全体的に言うと、やっぱり中途半端です。

まず主人公の感情部分の描写が少なすぎました。

母親のシーンを全カットしてるあたりでだいたいわかるとは思いますが。

映画だけ観た人のために言うと、クラヴィスは原作よりもっと悶々と悩むシーンがあるんですよね。それの一つが母親のシーンなんですよ。原作では、母親は事故で脳に大きなダメージを受け、脳の機能モジュールの一部が死に、心臓だけが動いている状態になった。

「どれだけのモジュールが残っていれば、それが意識と呼べるのか、われわれはそれを経験することができないんです。死というものが経験できないような意味で」

脳死”じゃなくて、脳の一部はちゃんと生きている。脳の一部は死んでいる。だが、そのどこが生きていれば”意識がある”と言えて、どこが死んでしまったら”意識がない”と言えるのか。痛みはあるのか、ないのか。それすら、わからない。

医者にそう言われ、治療を続けるか否かを選ばされ、悩んだ末に、クラヴィスは…

まあわかるかもですが、原作読んでない派のために伏せましょう。

そういう話があって、母親が夢に何回も出てくるんですよね。

カットされたカウンセリングでも結構その話をしている。

それは主人公の性格を理解するのにわりと重要な話だったんですよね。生死の扱い方が複雑になっているって話としても重要だったし。そしてカウンセリングは感情マスキングの点で重要だった。

ですが。アニメのほうだとここら全カットですよ。だから主人公は感情マスキングとか関係なしに普通にぽいぽい殺してる軍人にしか見えない。母親の話、”ぼく”という一人称、カウンセリング、それがあるから、軍人なのに少しだけおさなく見える感じがあったが、アニメは普通だ……

で、で。ここからです、今読むのやめようと思った人待て。

正直、原作の完全再現なんて無理です。

アニメ三部作とかにしなきゃ、無理なんですよ。そんなの。ましてやSFです。

説明だらけのぐだぐだわけわからんアニメになりかねない。ある程度のカットはしゃーないってのはわかってるんですよ。わかってる。

でも、「じゃあ原作は置いておいて、アニメとしていい作品に出来上がっているか?」というと、全然なんですよこれが。

僕が一番怒っておるのはここです。

中途半端。わかりやすいエンタメアニメにもなってない、原作再現もできてない。

ポイントは、ここなんですよ。

なんか大まかな流れはきっちりと原作に沿っている割には、上記に示した重要なファクターを抜かすし、そのわりには、アニメとしてわかりづらい。原作に沿っているわりにカットしているので、専門用語が一部分かりにくいんですよ。そして主人公の感情描写を少なくしちゃっているので、アニメとして楽しもうにも、感情移入ができないし、主人公の行動の意味がよくわかんなくなってくる。

レビュー何件か観ましたが、母親の描写なくてルツィアとの会話も一部カットしてるんで、そのせいで「こいつなんでいきなりこんなルツィア好き好きなってんだ?」ってレビューで書いてた人多かったですね。

全体的に、SF的説明をするのに必死だった、って感じですかね。痛覚マスキング、感情マスキングに一応触れたり(まあそれでも一応、って程度)、ルツィアとの会話もピジン英語のくだりはちゃんと話したりとか、SF的な部分はちゃんと書いてるんですよね。けど、それも言ってしまうと、半端に削ってるので、”ちゃんとSF部分描けているか?”というと、明らかに説明不足だよなあという部分あるし、そっち削ってなんでこっち書くねんわざわざってとこが目立つんですよねえ……痛覚と感情マスキングの話もすっかり忘れてますしね。SF的に感情カットしてるってより「まあ普通に軍人はこんなもんなんかね」ぐらいにしか思わなかったので、アニメでジョンポールに「感情をマスキングしている君らにはわからない」的なことを言った時も「あ、そういやそうだったな」くらいにしか、思わなかったなあ。って感じでした。

原作改変、別に気にならない点でさっき上げたこれがあります↓

⑥一回目ジョンポールを捕まえたシーン、列車で輸送でなく、ヘリでそのまま輸送になっている

別にこんなの、「ああアニメだししゃーないか」ぐらいで、気にならんのですよ。

けどアニメで見たとき、ヘリが一回落とされるんですよ。だから墜落して、気づいたら森の中でここどこだみたいななってたら、いきなり攻撃されるんですよね。けど僕はヘリから落ちて、どこか遠くに落ちたもんだと思ってたので、よくわかってなかったんですよね。「え、この攻撃してきたのは何や、現地住民かなんかかいな」てなりましたね。

列車だったら、普通に爆破されて列車内に取り残されてたら、さっき攻撃してきたやつがさらに攻めてきたってすぐわかるんですが、”ヘリから落ちて、森の中”って場面転換されたあとに場面前の敵が出てくると混乱しますね。

まあここ、イチャモンつけるとこではそんなにないんですが、原作変える必要ないのにわざわざ変えてそれでわかりづらくなってる、ってもう何がやりたいかわかんなくてむかついたのであげておきました。そもそも伊藤計劃が映画好きで、映画っぽい書き方になってるんで変に変える必要はないはずですが。

だからこそ「大きく改変して、みんなにわかりやすいエンタメアニメに」みたいなのがしずらかったのかもですが。

もうひとつ許せんのが、最後の方、一番重要なラストの方、なんかルツィアのために?とか言って虐殺の文法をアメリカにながすのが意味がわからない。そんなの原作で出てないし、アニメ用に改変する意味もわからない。

原作に忠実か、アニメとして忠実か。

どっちでもないんですよ。忠実さがない。

半端。それが一番むかつきましたね。

 

・結局一番売れたのは屍者の帝国

色々検索かけましたが、DVDBDも、観客動員数も三作品の中では屍者の帝国が一番多いみたいですね。虐殺器官もハーモニーもどうやら週間トップ10入りすらしていないようで、正確な数字が出てこないです。屍者の帝国が唯一トップ6くらいに入っていたので。DVDBDはハーモニーがたしか合算6000前後で、屍者の帝国が12000くらいだったかな。

屍者の帝国は、そもそも原作が伊藤計劃の書きかけでしたし、帯や宣伝文句では「伊藤計劃の作品を円城塔が完成させた!!!」みたいに書いてましたが、まあ完全に円城塔は「自分は伊藤計劃さんのテイストで書けないので」ってことで完全に円城塔テイストで書いてますからね。だから”伊藤計劃三部作”って考えると、原作ってもんがほぼ存在しないに等しい。だから結構小説版の屍者の帝国から書きかえられてましたね。

絵もわりとアニメ調でしたね。ぼくは小説も途中までしか読んでないですし、アニメも観てないですが、あらすじざっと見た時点で小説からかなり書き変えたのはわかりましたね。だから「あ、ちゃんとアニメに忠実にしたんだな」と思いました。

 

 

屍者の帝国

屍者の帝国

 

 

 

 

 

そもそも、Project Itoh自体、これを軸に若者を取り込んでSFに引っ張っていこう!って感じなのかな?とは思ってました。SF界隈でやたら伊藤計劃ヨイショされてましたしね。うんざりしてましたけど。だからハーモニーも虐殺器官屍者の帝国も、腐向け?っぽいグッズもありましたしね(偏見ですいません。たしか女性向けのグッズでよく見るデザインが使われていたんです…)。

これがねーーーーーーーー。屍者の帝国まではわかったんですが、他二作品でこういうことをやる理由はわからんというか、ナメてるのか??????????って感じでした。だって屍者の帝国はアニメのデザインもちょっと腐向けにしてあったんでまだわかりますけど、ハーモニーと虐殺器官でこれされても…って感じですよ。

まあ調べたら原作絵のグッズもまあまあありました。どっちにしろ、アニメが絵が感情移入できるアレでなかったので、グッズ買う気にはならんかったですが。原作に忠実にするなら、グッズ商法で儲けるのは無理だと思うんですがね。いうてとりあえずある絵をTシャツとキーホルダーにしただけでしたが。

そういうグッズ展開の仕方も含めて、なんか、アニメにしてりゃ若者来ると思ったんか?ナメてね?みたいに思いましたね。

ハーモニーと虐殺器官は、いかんせん原作通りすぎましたね。

ハーモニーは原作に近くて、全体的によかったと思いますよ。けどその分アニメ映画として評価するとちょっと微妙になっちゃいましたね。

 

 

ハーモニー

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ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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うーーーーーん。

タイトルに戻ります。僕は正直、小説は小説でできないことをやるべきだし、アニメはアニメで、映画は映画でしかできないことをやるべきだと思うんですよ。

小説は文字であることをいいことに会話多めに説明多めにしても問題ないが、アニメだとだれる。向き不向きがある。

だから小説をそのまま映像化する意味って、あんまりないと思うんですよね。

メディアの違いです。今回、伊藤計劃作品のアニメ化、Project Itohがいまいち当たらなかったのって、いかんせんSF界隈で評価されすぎて、原作いじりにくかったというか。

実写化とかでよく批判されますけど。原作改変。でもそれで実写として微妙な作品になるなら作らなくていいでしょ。別に実写化で改変されたからって原作が消え去るわけじゃないんで、僕はむしろ、メディアの違いを理解しないまま変に原作を固持して、映画観た人から「なんや、伊藤計劃つまらんわwwwwようわかんねwwwww」って言われる方が嫌ですね。

虐殺器官、変に原作守ったわりに肝心なとこ抜いてるんで、映画だけ観た人に「これ原作微妙なんじゃね」って言われる可能性めちゃくちゃ高いんですよ。それが最悪ですよ。しかも原作に忠実でちょっとしか違わない、だと原作読まない可能性高いじゃないですか。最悪ですよ。それならがっつり改変してた方がいい。興味ある人はそれでもちゃんと原作読むから。興味ない人は改変しようがしまいが読まないから。

 

メディアの違いを理解せよ。

メディアの違い、メディアによる捉え方の違い、層の違い。

そこを理解し、はっきりとどこ向けに売るかって作ってたら、良かったんですがね。

 

終わりです。

ほんと、原作はいいんです…………映画観た人はちゃんと原作観てください……

特に虐殺器官………ちゃんと読んで………ほんと………

 

 

 

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虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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伊藤計劃トリビュート (ハヤカワ文庫JA)

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