ばしこ氏のブログ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

書くことエンジンが止まるとき

この二つ前に「書くことエンジン」の話をした。

まあ読んでなくとも、「書くことにエネルギーいるよねー」「日によって書ける文章とか勢いとか速度ちがうんちゃう~?」ぐらいの話を理解してもらえていればだいたいおっけい。

 

この「書くことエンジン」、どうにもやっぱり、今日の帰り道では「書くぞー!」と思っていたことが全くかけず、結局今書いているのは全く関係ない話だったりする。

(ちなみに帰り道では「真面目、って二種類あるよね」って話と、円城塔「誤字」読んでちょっと思ったこと、って話を書きたいと思ってた)

それをなんでかな?としばらく考えていたんだけれども、やっぱり時間をおくことで、意見の純度がどんどん下がっていくからなんだなーということが原因なのかなと思った。

 

以前「書くことエンジン」の話を書いたとき、「見せる対象、公開範囲によって書く文章は変わってくる」という話をした。

で、自分がだいたい「書こう」と思ったときは、当たり前だが自分含め誰かしらに見てもらうことを想定して書いている。

つまり、書くぞ!ってなった時点で誰かに見せることは決定してるわけである。

そうなると、その考えを「書く用」=「誰かに見せる用」に変換していく流れで、絶対どこか削ぎ落とされていく。で、考える時間が長ければ長いほど、元々のアイディアから「誰かに見せる用」にきれいに変換されてしまう。

もちろん職業で文章書くのであればそういう変換も大事だと思うのだが、そんな文章、個人的になんで書かねばあかんねん、となってしまう。元々言いたかった考えの純度、つまり自分が言いたかった部分が、どんどん薄れていってしまうからである。

そうやって純度が落ちた文章はつまらん。というか、面白かったにしても、書ききるまでにエネルギーが出ない。

文章書くの、どこが面白いかって、書いている途中にオチがわからんことだと自分では思っているんだよね。またこの前の日記(二つ前のエントリーね。書くことエンジンのやつ)を引き合いに出すけど、この前のイベントの時にノンストップで文章を書いたときも、面白いくらいに話がまとまって、きれいに完結して、純度は高いままなのに、とても見た目がよい文章になった。

しかしそれはノンストップだったから、クソ文章になるか、いい文章になるかは全然わからなかった。それがないと、自分でも「書いてみようかな」とあんまりならない。書くってことは、誰かが言ってた気がするけど、自分を見直したりとか自己分析とかの役に立たねぇかな~って試してる意味合いもあるので、バズらなくてもある程度自分のためになる、役に立つ文章にならないと、書くことエンジンまわす意味が全くもって存在しないと思っちゃうのよね。直感で。

だから、書くことエンジンが止まっちゃったり、数行書いてガス欠しちゃうのは、「自分にとって意味ねえな」とどっかで思っちゃうからなんだろうな、と考えた。

 

で。この回答も、今書いてるなかでリアルタイムで出てきたもので、これを見て自分は「なーるほど」と思うのである。こうやって書いた文章は、毎回自分とは離れた、頭の上から雄大離脱した自分が眺めながら書いたような、ふわふわ浮いた不思議な文章になる。自分から出たのが信じられないような。

読み手になるときはもちろん毎回自分はちゃんと魂が肉体に入っているので、自分を知っている他人が自分について書いたような、そんな気分になる。

逆に言えば、そんな気持ちにならない文章なんて、書いてても自分にとっちゃくそつまらんということだ。

 

だからまあ、自分としては、自分で書いた文章でそれがバズったりすることはなかなかないだろうなあ、と思う。

だって他人向けに書いているようで自分向けにかいていて、けどどこか他人向けに書いている、なんだか変な文章なんだから。

 

今回書くことエンジンは時速60kmくらいだろうか。こんぐらいのエンジンでまだまだ書けるといいなあ。久々に小説とかも、書いてみようかな。

方言バイリンガルのお話

・関西人は強い、というか関西弁が強い

仕事柄、関西の方々と絡むことが多い自分です。そうすると、偏見とかなしに、「関西人強いなぁ」と思うことがある。強いっていうのは、すごい攻めるというか。ガンガン値切ったり、要望とか意見も言うときはバシバシと言うというか。

だもんで、入社したての頃は圧倒されてました。すごいなぁ関西人………ってかんじで。

けどよくよくみてると、どうも"関西人が"強い、というよりも、"関西弁が"強いなぁ、ということが見えてきた。

関西人でも弱いひとはもちろん弱い。しかし、コッテコテの関西弁を使っているひとは不思議とつよい。そんな気がするのだ。気が強いひとを頭のなかで思い浮かべると、関西弁が強い気がする。

で、それはいったんおいておいて、周囲が関西人ばっかなので、自然と関西弁がうつってくる。

んでついにはこの間「大阪住んでたん?」と大阪の人に聞かれるほどにうつってることが判明。非常にびっくりした、、、

しかし、自分が関西弁を使うタイミングを見てると、面白いことが分かってきた。

○関西の同期と絡む時に出る

○強気に言いたい時に出る

○福岡の人(特に入社前から知ってる大学時代のひとなど)の前ではあまりでない

全部のタイミングで関西弁、ってわけではなくて、絡むひと、場面で使い方が違うのだ。

絡むひとによって違うのはなんとなくわかるかもしれんのだけど、場面で違うのは面白いなぁと思った。

それぞれの場面によって使いやすい言葉と言うのがあるってことで、それを無自覚に使いこなしてるということなので。

 

だもんで、今度福岡の方々は自分と会うときに関西弁でてないか確認してほしいんでお願いします。(ツイッターレベルの文章の長さになってしまったがおわり)

書くことエンジン、ノンストップ180km/h

・180km/h、出してきました。

滝口悠生さんのイベントにいってきました。日記を書くことについてのワークをするイベントで、一応新刊の「茄子の輝き」刊行イベント、という形ではありましたが、ほとんど日記の話と書くことについての話がメインでした。それがとても楽しくてよかったです笑
それで、とても「わかる!!!」となったのが、「人に見せる文章と、他人に見せる文章は違う」ってことです。人に見せる文章、ってなるとどうしても「これは皆わからないから説明しなきゃ」とか、「あれはつまんない」とかになりがちになります。けども、だれも読まない、自分しか読まない日記ってのは、そんなの気にしなくて良い。「とも、ビール、本」。昨日の出来事は、自分はこれだけで伝わる。この間にあるものは自分の中にあるので。
基本的に僕は文章を書くのがすきだ。だから普段からわーーーーーーっと文章を書くことが多い。そうやってると、どうしても「これはいいもんじゃないか?」「おもしろいんじゃないか?」「みてもらおう!」と思ってしまって、書き直してネットにあげたりする。しかし、たいがいが途中で頓挫する。
だって、自分が書きたくなくって、けど他人に見せるために書く文章が途中で出てくると、めちゃくちゃ面倒だから。
そんなんわしの脳内見て考えんかい!テレパシーじゃ!!!!!と、どうしてもなってしまい、しかし人様に見せるとなるとそうもいかず、結局お蔵入りになって、日記でおわる。
そんなかんじで、ずっと色々書いてきた。
ただただ書くってことは好きなんだけれども、けどっぱりその書くってことでだれかに認められたいというのがどこかにあって、しかしそれが出てきた瞬間、文章のよさってものはどっかに置いていってしまう。
だからできるだけ、書くことに対するエンジンが、ぎゅいんぎゅいんいってるときに書いた方がいいかなとおもってる。
今回の日記もそうだった。
日記を書きなさい、と言われんだけれども、自分の書くことエンジンは昨日の出来事じゃ全く作用せず、思いがけず近所の理髪店でエンジンかかってしまったので、それでががーっとかいてしまった。しかしおもしろいのが、ほんとに推敲なし思考なしでノンストップで書いたつもりが、案外まとまりのある話になって、その話が一通り終わってからの文章とか、そのはなしが始まる前の文章なんかは、考えてかいたせいかぴりっとこない。むむむって感じ。
今はラーメン食べて、少しエンジンさまして、時速60km/hくらいってところ。出るときは180km/hを公道で出そうって勢いになってしまう。もちろんそんなに続かなくて終わる。

でも今回の日記は、まさに180km/hだった。
とってもよかったなー、と思ったのが、ちゃんと突っ走れたことだ。自分は普段、人前になると絶対20km/h運転になる。ガチガチにルールに怯えて、しっかり走ろうってなってしまう。だからノンストップ180km/h文章を今回書いたのであった。
それをちゃんと滝口さんや、文章のお仕事に携わる方、文章が好きな方々の前で発表できたのはよかった。
今回書いた文章は冊子になるそうで、楽しみに待つ。そのときにまた公開しようかなとおもう。

 

・「これはペンです」の、ペン

それでちょっと思ったことが、ノンストップ180km/h文章とめちゃくちゃ丁寧20km/h文章の合間、60km/h文章を書くのがめっちゃむずいってことだ(全然間じゃないけどきにせずに)。
自分は何か書く時のわーーーーーーっと感を、ひとつにまとめたりしたい。本にしたり、したい。けども、どーーしてもそうなると20km/hめちゃくちゃ丁寧ガチガチ緊張文章になって、どっと疲れて書くのをやめてしまう。かといって、180km/h暴走文章が続くわけもない。
今くらいの、時速60kmの、のんびり文章がつづくのが、自分がすきで、長く書けるスピードだ。

それで、さらにまた思ったことが、ちょうどいいスピードで文章を書くには、「ペン」がめちゃくちゃ大事だなってことなのだ。
これは、円城塔さんの「これはペンです」的なペンだ。自分の解釈と他の人の解釈が違ったらアレなので書くと、あれはいろんな道具を使って文章を書く話だった。けども、いろんな道具=広義のペン、で文章を書くと、どうしても「ペン」に文章が振り回されてしまうってかんじの話だった。磁石に文字がかかれたやつで手紙かいてみたりとか(当然磁石なので反発したりくっついたりでちゃんとかけない)。文字が書かれた岩でかいたりとか(ショベルカーで。結局怪我して血文字で書くはめに)。塩基配列でかいたりとか(バイオテロかと疑われる)。
「これはペンです」の中では、そういう変な「ペン」で叔父さんがいろんな文章を書くのだが、叔父さんはその「ペン」に振り回されない文章を書こうと、どんな「ペン」であっても同じ文章が書こうとしている、と主人公が解釈していた。

じゃあ実際はどうだろうか。自分の周りには、結構いろんな「ペン」がある。スマホ、キーボード、PC、ボールペン、お気に入りのシャープペンシル、マジック、声、とか。そしてさらに、それをどこに出すかでもまた違ってくる。スマホなら、メール、ツイッターはてなブログ、LINE………手書きなら、ほぼ日手帳、100均のメモ帳、ハウステンボスのトラベリングマンのノート、キャンパスノート、A4用紙…………
そういう意味では、書く道具書く道具、「ペン」だけでなく、何に書くかによってぜんぜん違う文章が生まれると思うのだ。

僕はこれを全部ひっくるめて、ひとつの「ペン」としたい。スマホツイッター。PCでツイッタースマホでメール。下書きメール。Gmail。手書きのほぼ日手帳。A4。それぞれで全部違うんだと思う。
だから、ちょうどよい、ほどよい「ペン」で、書くのが大事だなぁ、と思ったのだった。

 

それだけじゃなくて、今回のイベントで大きく思ったのが、全く同じ「ペン」でも、公開範囲で違うということだ。今日ホテルでA4で書くのと、今日のイベントで同じA4で書くのは、たぶん違うから。その公開範囲までもが、「ペン」なのだ。
そうすると、その「ペン」は、自分の意思である程度書きやすさ書きにくさを操作できるってことになる。今日も、公開範囲は広かったけれども、エンジンフルスロットル180km/h文章をだすことができた。
一人で部屋にこもってかっとばす文章とそんなに変わらない文章がかけたと思う。

だから「これはペンです」で叔父さんが目指すところって、こういうところなのかなぁ、とぼんやり思ったのでありました。

今日の文章はまとまったのでここまで。

全然滝口さんの作品の話が出てこなかったので、以前読んだジミヘンをまた読み返して、あと茄子の輝きもよんで、思うとこあったらまた書きます。
一応、これより下に、「イベント終わってまだ180km/hでてるときに書いた文章」を貼っとくので、きになるひとは読んでみて、この文章との120km/hの差がどこにあるのかを読んで確かめてみてください。
案外ないかもね笑

 

 

 


(以下、180km/h文章)
***********

普段の自分は文章の「書く勢い」みたいなのがあって、がーーー~っとかいてさっとおわる。それ以上やるにはちょっとやすんで冷まさないと無理。そんなやり方でずっとかいてる。今日もがーーーっとかいてがーーっとおわった。終わったあと無理矢理体裁を保とうと思ったけど全然だめだった。
でもそれはだめってのは、あくまでみせるためだからだめなんであって、別に日記にダメもくそもないはずなんだけど。というわけで今回はがーーっとまたかいてみることにする。推敲はなし。いつもどおり。推敲すると色々と死んじゃうから。今日書いたのは理髪店の話だった。昨日の話をがーーっとかいていたら、美容室の話が出てきて、そこから理髪店の話か思い付いて、がーーっと書いてみた。それですごいすっきり感がして、昨日起きたことはさっぱり書かなかった。
でもすっきりした。のわりに、なんだか人に見せるみたいな、話まとまったかんじになっちゃったなぁ、と思った。
研修をしてて思ったのが、自分はまとめたり説明するのがうまいと言われる。それがどこかで勝手に働いてる気がしちゃうんだよな。だからいまもわーっとかいてるけれど、どこかでそれがさようしている気がする。
でもでも一方で、この文章もそうだし、あの日記もそうだし、がーーっとノンストップ推敲思考ほぼなしで突っ走っているのは事実だ。だってそんなことしなかったら、自分はまとめたりとか他人に見られるとかを気にするタイプ。絶対どっかで文章か死ぬ。どっかでかっこつけがめちゃくちゃ出てしまう。こういう、めちゃくちゃ、とかつかうのも、ある意味そういうかっこつけをごまかすために稚拙に使ってる感はある。
だから、だれにも干渉されない文章、だれにも見せるつもりがない文章ってのを書く場所は、滝口さんがいってたように作るべきだなぁと思うし、実際作ってる。一月に一回、あるいは一週間に一回、あるいは半年に一回、わーーーーーーっと書いている。わーーーーーーっとかけるうちにかいてしまわないと死ぬ。なんかもうでてこなくなる。ので書けるうちエンジンかかってるうちにわーーーーーーっとかく。無理矢理書いてもかかるときはかかる。かからんときはかからん。
そんなかんじて、日記かけばいいのかなぁ。うん。

伊藤計劃作品アニメ化、大失敗!!!!!~メディアの違いを理解せよ~

(注意:虐殺器官のネタバレありです。原作の映画化にイチャモンつける話なので、原作読んで「映画どうかな」て気になってた人、映画観て「原作どうかな」て思ってた人にオススメです。まあネタバレ気にしないなら特に気にせずどうぞ)

 

先日、滑り込みで虐殺器官を見てまいりました。

あーーーーーーー。

ってなりました。

うん。なんか、言葉に困る。まあ、それなりに原作再現してて、よかったんだけど…

 

うーん、ってしばらく悩んだ挙句、一つの答えが。

 

制作側のやりたいことが半端で、はっきりしなさすぎる

ぶっちゃけ、Project Itoh全体がそんな感じだ。

 

これに尽きる。順番に説明していきましょう。

 

 

(以下、ネタバレですがっつり)

 

 

 

 

 

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

 

虐殺器官の評価

全体の評価は一旦置いておいて。とりあえず虐殺器官の話からしましょう。

結構原作再現のシーンあったんですよ。「地獄はここにあります。頭の中の、脳みその中に」とか、「不条理なもんは全部カフカだ」とか、台詞で印象に残るものはまあまあ使われてた。けどいくつか抜けてるものがありましたね。

抜けてる部分と変更点に関して紹介しましょう。

①クラヴィスの母親のくだり(夢の話含め)がガッツリ抜けている

②アレックスが自殺じゃなく、最初の任務で暴走して殺されてる

③カウンセリングのシーンは最後の少年少女を殺すためのとこ以外カット

④第四部3ほぼカット

⑤映画冒頭のほうにサラエボの核のシーンが書かれる(ジョンポールがニュースでそれを知るシーンも)

⑥一回目ジョンポールを捕まえたシーン、列車で輸送でなく、ヘリでそのまま輸送になっている

⑦虐殺の文法が入ったSDカードみたいなもんがある(それをルツィアが死ぬ直前のシーンでクラヴィスが手にする)

⑧最後のジョンポールと二人で草原で会話するシーンで、なにか(虐殺の文法の話を世界にするって話?ここはぼかしてる。さすがに覚えていない)「お前にしかできない」と言い、クラヴィスがジョンポールを殺す

 

ま、ざっとこんな感じですかね。細かい部分見逃しあると思いますし、説明しずらくどうでもよさげなとこは書いてません。

さて、先に言っておきますが、小説をアニメ化するにあたって、ある程度カットせざるを得ないのは承知しています。にしても、もうちょいなんとかならんかったのか…って感じでした。

全体的に言うと、やっぱり中途半端です。

まず主人公の感情部分の描写が少なすぎました。

母親のシーンを全カットしてるあたりでだいたいわかるとは思いますが。

映画だけ観た人のために言うと、クラヴィスは原作よりもっと悶々と悩むシーンがあるんですよね。それの一つが母親のシーンなんですよ。原作では、母親は事故で脳に大きなダメージを受け、脳の機能モジュールの一部が死に、心臓だけが動いている状態になった。

「どれだけのモジュールが残っていれば、それが意識と呼べるのか、われわれはそれを経験することができないんです。死というものが経験できないような意味で」

脳死”じゃなくて、脳の一部はちゃんと生きている。脳の一部は死んでいる。だが、そのどこが生きていれば”意識がある”と言えて、どこが死んでしまったら”意識がない”と言えるのか。痛みはあるのか、ないのか。それすら、わからない。

医者にそう言われ、治療を続けるか否かを選ばされ、悩んだ末に、クラヴィスは…

まあわかるかもですが、原作読んでない派のために伏せましょう。

そういう話があって、母親が夢に何回も出てくるんですよね。

カットされたカウンセリングでも結構その話をしている。

それは主人公の性格を理解するのにわりと重要な話だったんですよね。生死の扱い方が複雑になっているって話としても重要だったし。そしてカウンセリングは感情マスキングの点で重要だった。

ですが。アニメのほうだとここら全カットですよ。だから主人公は感情マスキングとか関係なしに普通にぽいぽい殺してる軍人にしか見えない。母親の話、”ぼく”という一人称、カウンセリング、それがあるから、軍人なのに少しだけおさなく見える感じがあったが、アニメは普通だ……

で、で。ここからです、今読むのやめようと思った人待て。

正直、原作の完全再現なんて無理です。

アニメ三部作とかにしなきゃ、無理なんですよ。そんなの。ましてやSFです。

説明だらけのぐだぐだわけわからんアニメになりかねない。ある程度のカットはしゃーないってのはわかってるんですよ。わかってる。

でも、「じゃあ原作は置いておいて、アニメとしていい作品に出来上がっているか?」というと、全然なんですよこれが。

僕が一番怒っておるのはここです。

中途半端。わかりやすいエンタメアニメにもなってない、原作再現もできてない。

ポイントは、ここなんですよ。

なんか大まかな流れはきっちりと原作に沿っている割には、上記に示した重要なファクターを抜かすし、そのわりには、アニメとしてわかりづらい。原作に沿っているわりにカットしているので、専門用語が一部分かりにくいんですよ。そして主人公の感情描写を少なくしちゃっているので、アニメとして楽しもうにも、感情移入ができないし、主人公の行動の意味がよくわかんなくなってくる。

レビュー何件か観ましたが、母親の描写なくてルツィアとの会話も一部カットしてるんで、そのせいで「こいつなんでいきなりこんなルツィア好き好きなってんだ?」ってレビューで書いてた人多かったですね。

全体的に、SF的説明をするのに必死だった、って感じですかね。痛覚マスキング、感情マスキングに一応触れたり(まあそれでも一応、って程度)、ルツィアとの会話もピジン英語のくだりはちゃんと話したりとか、SF的な部分はちゃんと書いてるんですよね。けど、それも言ってしまうと、半端に削ってるので、”ちゃんとSF部分描けているか?”というと、明らかに説明不足だよなあという部分あるし、そっち削ってなんでこっち書くねんわざわざってとこが目立つんですよねえ……痛覚と感情マスキングの話もすっかり忘れてますしね。SF的に感情カットしてるってより「まあ普通に軍人はこんなもんなんかね」ぐらいにしか思わなかったので、アニメでジョンポールに「感情をマスキングしている君らにはわからない」的なことを言った時も「あ、そういやそうだったな」くらいにしか、思わなかったなあ。って感じでした。

原作改変、別に気にならない点でさっき上げたこれがあります↓

⑥一回目ジョンポールを捕まえたシーン、列車で輸送でなく、ヘリでそのまま輸送になっている

別にこんなの、「ああアニメだししゃーないか」ぐらいで、気にならんのですよ。

けどアニメで見たとき、ヘリが一回落とされるんですよ。だから墜落して、気づいたら森の中でここどこだみたいななってたら、いきなり攻撃されるんですよね。けど僕はヘリから落ちて、どこか遠くに落ちたもんだと思ってたので、よくわかってなかったんですよね。「え、この攻撃してきたのは何や、現地住民かなんかかいな」てなりましたね。

列車だったら、普通に爆破されて列車内に取り残されてたら、さっき攻撃してきたやつがさらに攻めてきたってすぐわかるんですが、”ヘリから落ちて、森の中”って場面転換されたあとに場面前の敵が出てくると混乱しますね。

まあここ、イチャモンつけるとこではそんなにないんですが、原作変える必要ないのにわざわざ変えてそれでわかりづらくなってる、ってもう何がやりたいかわかんなくてむかついたのであげておきました。そもそも伊藤計劃が映画好きで、映画っぽい書き方になってるんで変に変える必要はないはずですが。

だからこそ「大きく改変して、みんなにわかりやすいエンタメアニメに」みたいなのがしずらかったのかもですが。

もうひとつ許せんのが、最後の方、一番重要なラストの方、なんかルツィアのために?とか言って虐殺の文法をアメリカにながすのが意味がわからない。そんなの原作で出てないし、アニメ用に改変する意味もわからない。

原作に忠実か、アニメとして忠実か。

どっちでもないんですよ。忠実さがない。

半端。それが一番むかつきましたね。

 

・結局一番売れたのは屍者の帝国

色々検索かけましたが、DVDBDも、観客動員数も三作品の中では屍者の帝国が一番多いみたいですね。虐殺器官もハーモニーもどうやら週間トップ10入りすらしていないようで、正確な数字が出てこないです。屍者の帝国が唯一トップ6くらいに入っていたので。DVDBDはハーモニーがたしか合算6000前後で、屍者の帝国が12000くらいだったかな。

屍者の帝国は、そもそも原作が伊藤計劃の書きかけでしたし、帯や宣伝文句では「伊藤計劃の作品を円城塔が完成させた!!!」みたいに書いてましたが、まあ完全に円城塔は「自分は伊藤計劃さんのテイストで書けないので」ってことで完全に円城塔テイストで書いてますからね。だから”伊藤計劃三部作”って考えると、原作ってもんがほぼ存在しないに等しい。だから結構小説版の屍者の帝国から書きかえられてましたね。

絵もわりとアニメ調でしたね。ぼくは小説も途中までしか読んでないですし、アニメも観てないですが、あらすじざっと見た時点で小説からかなり書き変えたのはわかりましたね。だから「あ、ちゃんとアニメに忠実にしたんだな」と思いました。

 

 

屍者の帝国

屍者の帝国

 

 

 

 

 

そもそも、Project Itoh自体、これを軸に若者を取り込んでSFに引っ張っていこう!って感じなのかな?とは思ってました。SF界隈でやたら伊藤計劃ヨイショされてましたしね。うんざりしてましたけど。だからハーモニーも虐殺器官屍者の帝国も、腐向け?っぽいグッズもありましたしね(偏見ですいません。たしか女性向けのグッズでよく見るデザインが使われていたんです…)。

これがねーーーーーーーー。屍者の帝国まではわかったんですが、他二作品でこういうことをやる理由はわからんというか、ナメてるのか??????????って感じでした。だって屍者の帝国はアニメのデザインもちょっと腐向けにしてあったんでまだわかりますけど、ハーモニーと虐殺器官でこれされても…って感じですよ。

まあ調べたら原作絵のグッズもまあまあありました。どっちにしろ、アニメが絵が感情移入できるアレでなかったので、グッズ買う気にはならんかったですが。原作に忠実にするなら、グッズ商法で儲けるのは無理だと思うんですがね。いうてとりあえずある絵をTシャツとキーホルダーにしただけでしたが。

そういうグッズ展開の仕方も含めて、なんか、アニメにしてりゃ若者来ると思ったんか?ナメてね?みたいに思いましたね。

ハーモニーと虐殺器官は、いかんせん原作通りすぎましたね。

ハーモニーは原作に近くて、全体的によかったと思いますよ。けどその分アニメ映画として評価するとちょっと微妙になっちゃいましたね。

 

 

ハーモニー

ハーモニー

 

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

うーーーーーん。

タイトルに戻ります。僕は正直、小説は小説でできないことをやるべきだし、アニメはアニメで、映画は映画でしかできないことをやるべきだと思うんですよ。

小説は文字であることをいいことに会話多めに説明多めにしても問題ないが、アニメだとだれる。向き不向きがある。

だから小説をそのまま映像化する意味って、あんまりないと思うんですよね。

メディアの違いです。今回、伊藤計劃作品のアニメ化、Project Itohがいまいち当たらなかったのって、いかんせんSF界隈で評価されすぎて、原作いじりにくかったというか。

実写化とかでよく批判されますけど。原作改変。でもそれで実写として微妙な作品になるなら作らなくていいでしょ。別に実写化で改変されたからって原作が消え去るわけじゃないんで、僕はむしろ、メディアの違いを理解しないまま変に原作を固持して、映画観た人から「なんや、伊藤計劃つまらんわwwwwようわかんねwwwww」って言われる方が嫌ですね。

虐殺器官、変に原作守ったわりに肝心なとこ抜いてるんで、映画だけ観た人に「これ原作微妙なんじゃね」って言われる可能性めちゃくちゃ高いんですよ。それが最悪ですよ。しかも原作に忠実でちょっとしか違わない、だと原作読まない可能性高いじゃないですか。最悪ですよ。それならがっつり改変してた方がいい。興味ある人はそれでもちゃんと原作読むから。興味ない人は改変しようがしまいが読まないから。

 

メディアの違いを理解せよ。

メディアの違い、メディアによる捉え方の違い、層の違い。

そこを理解し、はっきりとどこ向けに売るかって作ってたら、良かったんですがね。

 

終わりです。

ほんと、原作はいいんです…………映画観た人はちゃんと原作観てください……

特に虐殺器官………ちゃんと読んで………ほんと………

 

 

 

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虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

伊藤計劃トリビュート (ハヤカワ文庫JA)

伊藤計劃トリビュート (ハヤカワ文庫JA)

 

 

個人経営っていいよねって話。

この前、たまたま博多でゲーム屋を見つけました。今時珍しい、個人経営のゲーム屋。今や無名チェーンすらなくなり、有名チェーン以外はほぼ消えていってるなか、福岡にまだ個人経営のゲーム屋あったのか…と驚いた。
呉服町あたりのGEOの地下にあります。
んで、そこはもうゲームめっちゃ山積みしてあるのだけど、品揃えがいい。とりあえずSFCのケーブル買いました。すると「家のTVにS端子させるとこある?」と言われ、わかんないと答えると、「じゃ普通の三色ケーブルのやつ売るけど、もし家のTVがS端子使えたらS端子対応のケーブルと変えてあげるよ。S端子だと全然画質違うよー」と言われた。
うーん優しい。というか、ああマジでこの人ゲーム好きなんだなと思った。

んで、今日は那珂川町と南区の境あたりのゲーム屋に。古本も扱ってるのだけど、呉服町のゲーム屋以上にもうごっちゃごちゃ。一通り回って、SFCすーぱーなぞぷよを購入。買うときに「何時くらいから開いてます?」とか、「何置いてます?」とか他愛のない会話をして、帰る。
こっちのゲーム屋は特にエピソードあったわけではないけど、「何のゲーム置いてます?」て聞いたときに「買取したもんならなんでも置いてるから、古いのも色々あるんだろうけど、整理しきれなくて…笑」て言ってた時は和んだ。

こういう個人経営って、気付いたらつぶれちゃうのだなぁ。ゲーム屋は気づいたときにつぶれたのはいくつもあった。
それで少し思い出したのが、小学校の頃に行った、個人経営のカードショップの話。
そこはじいさんがなぜかカードに詳しく、じいさんがカードの買い取りをしてた。じいさんのまわりに近所の子供がたくさん集まってたから、なんかほんとにおじいちゃん家って感じだなぁと思った。昔ながらの、カウンターのすぐ裏が居間みたいな商店をそのまま使ってたから余計そう思った。友達に教えられ、隣町の知らないとこに買いにいくのはめちゃくちゃ楽しかった。
しばらくしてそのカードゲームはやらなくなって、高校になってから、まあ7年ぶりくらい?に記憶を辿って行ってみたことがある。
小学校時代に二、三回行った程度なのにたどり着いたので、自分の道の記憶力を誇らしく思った。
その店に入ると日曜なのに客は一人もいなかった。
入るとおばあちゃんが一人しかいなかった。話しかける勇気がなかったので、そのまま出るか悩んだけど、こっちが話しかけたらおばあちゃんが色々話してくれた。

小学校の頃はかなり売れていたが、おじいちゃんがしばらくしてから亡くなられてしまって、自分ではカードのことはわからないので、新しい買い取りができなくなったそう。とりあえず今あるものを売るだけ売っていたけど、だんだん客が来なくなり、町に別にカードショップが出来たりして客は全く来なくなったとのこと。
だから自分が久々のお客だったんだとおもう。
結構話し込んで、カード五枚セット(一枚ベリーレア入り)みたいなのを買って、帰った。
流石に品揃えがよかったとはお世辞にも言えなかったので、たまには行くかという程度だった。


たぶん一年か二年か、そのくらいしてふと思い出して行ってみたが、そこは既に更地になっていた。


まあ、品揃えとか考えても、つぶれるべくして潰れたなぁ、とは思ったし、別に自分が同情してカード買いまくることもなかっただろうけど、いつも通ったとこが潰れる以上の寂しさがあった。
人知れず潰れちゃう感じというか。

クソ古いジジイみたいな話をするけど、チェーンよりも個人経営の方がいいと思うんだよね。チェーンが悪いわけでなく、イメージとしてはチェーンはあくまで「古いものを売りたい…」「古くてもいいから安いものを買いたい…」というニーズを合わせるために仲介してるという感じ。
個人経営は好きでやってる感じ。好きで古いもん集めて古いもん売ってる感じ。もちろん全てはそうとは限らんのだけど。
あと単純に、少ない人数でこじんまりやってると、チェーンより愛着わくよね。「その人の接客を受けに行こう!」じゃないけども。
あのおばあちゃん元気かなぁ。

最近古本屋もそうだけど、中古ゲーム屋は更に減ってしまった。
「こんなクソゲーおいとるんかい!」みたいなゲーム屋を見ることが減ってしまった。悲しい。チェーンばっかりになって、値段もほぼ一律になって掘り出し物も無くなってしまった。悲しい。
ネットで便利に手にはいるようにはなったけど、その分転売や値段のつり上げが横行して、結局物によっては前より手に入りづらいようなことになってる。

もうひとつ個人経営の利点をあげておくと、「個人がやってるから個性が出る」、これに尽きる。
今はネットで商品自体はすぐ手にはいるようになったし、情報もバンバン入ってくる。けども、情報がバンバン入りすぎて、逆に今度は取捨選択が大変になってしまった。情報全てを拾うのは無理。拾えたにしても、その情報に沿って全ての気になった商品を買っていく、てのは難しい。
だから個人経営の店って、今こそニーズがあると思うんだけどなぁ。ないのかなぁ。本屋はあるみたいだけど、ゲーム屋はどうなんだろう。俺はすきなんだけどなぁ。また行こう。

ネタバレの話~作品を楽しめなくするものとは何か~

今年から毎日はてな記事を書くぞ!と思って10日が過ぎました。

去年は四日くらいで終わってました。いけませんね。一気に削除してまた一から始めようかと思いましたけど自分で読んで「なかなかおもろいやんけ」と自己満足したので全部は消しませんでした。短くても「ついったーに投稿するにゃ長いな」くらいの文章は毎日載せたいと思ってます。頑張ります。

 

さて、話は変わって。FGO年明けから始めました(Fate Grand/Orderのこと。知らない人は調べてね)。

どーしても原作Fate(stay/night)やってからやりたい…と思って避け続けていたが、なんか今年の1/1から始めるとよいと聞いたので始めた。ログインボーナスだけもらって、原作やってからやるか。と思ってた。

初回ガチャを引きました。

そのガチャに出てきたキャラの名前でめちゃくちゃネタバレくらって死にました。

はい。

でも自分の中でダメージが少なかったです。まあ原作始めたら「うわ…これネタ知ってたらつまらんやん…」てなるかもしれないですが、なんとかなるかなって感じました。

 

そのとき思ったのが、まず「なんでネタバレを自分は嫌がってたんだ?」ってこと。まあ言わずもがな、作品がつまんなくなるからですね。じゃあ、「そもそもネタバレってそんなに作品の楽しみを阻害するか?」ってこと。「というか、何が作品の楽しさを削ってるんだ?」という疑問に至った。というわけで、ゲームとか小説とかアニメとか、作品を消費するうえでもろもろあったこと踏まえつつ、上二つの疑問を解消していこうと思いますよ。

※先に言っておくと「自分の場合、ここはネタバレされても大丈夫だなー」という話に過ぎないので、不特定多数が見るとこでのネタバレはできるだけ避けましょう。ネタバレ推奨記事ではないよ。

 

・作品の楽しさってなんぞや

ネタバレされてきついパターンってなんや?と言われると、まあ作品100%全部知ってるパターンはつまらんですね。当たり前ですが。同じ映画とか小説とかマンガとかゲームとか、まあ二回三回リピートすることもありますが、ある程度忘れてからですからね。多分完全に覚えてしまってたら、あんまり見ないかもしれない。時に完全に覚えてでも何回でも見る人もいますが、そこまで好きな作品てそうそう出てこんと思うのでまあ例外と言うことで。

ともかく、だいたいがほとんど知らない・覚えてない状態で楽しむのが普通。と思う。

推理モノなんか、特にそこうるさいというか、教えるなよ絶対!みたいな感じがある。なんでかーって言われると、そんなに見たことないんであくまで推測ですが、やっぱ自分で「こいつが犯人か?」「いやこいつか!?」って探す楽しみがなくなっちゃうからかなと。そこが推理ものの核だからなのかなあ、とか。もちろんそれ以外もあるんだろうけど、たとえばネタバレされてる状況で、「本当はAが犯人だけど、Bが犯人のように見える仕掛け」があったとして。それみてる間はつまらん気がします。目の前でやっていることが茶番になってしまうと思うので。その作品を見るのが二周目なら、それをニヤニヤしながら見れるでしょうが、やはり一周目はそこで「誰だ!?」ってなるのが楽しいんじゃないかなあと思うのであります。

僕は推理ものは逆転裁判ダンガンロンパをやったくらいで、小説も映画もあんま見てないですけど。その二つは特にネタばれしたらいかんなーと思いますし、攻略も半日やって一向に進まない…みたいなことにならない限り見なかったですね。だって推理ゲームですから。ドラマや小説みたく視聴者としてストーリーを見ているだけじゃなくて、自分で操作して自分で答えに導いていくわけですから。知ってたらあんまりつまんない。逆転裁判も好きなんですけど、2、3周したらさすがに話も細かい部分の答えもだいたい覚えてきて、つまんなくなってしまいました。

唯一見た東野圭吾真夏の方程式」「容疑者Xの献身」の映画も…うーん2回はいいかな…笑

作品て基本的に一回楽しめたらOK!で、もう一回楽しめる!って作品は少ない。

そう考えると、ネタバレの罪深さって結構なものなのかな…と思い始めた次第。

 

いや、いやいやいや。うーん。

ネタバレが大丈夫なパターンがある気がして記事を書き始めたのですが、案外ない。

案外どころじゃないよ、全然ないよ。

 

つまりは「は~~~~~~~~めっちゃ好き何回見てもええわ」みたいなやつ以外はネタバレダメージがデカイ。

はっきりいって、ネタバレの範囲が狭けりゃセーフかもしれない…としか言えない…

作品を楽しむ第一回、初めて作品に触れるときの体験を奪っちゃうわけだがら、かなり罪深いですねほんとに……

 

うーん、めっちゃエラそうなタイトル付けたけど、10日くらいまじめに考え込んだけど、ネタバレは罪!!!!!!!!!!!クソ!!!!!!!!!!!

けど自分で楽しめる範囲がまだまだあるんならOK!!!!!!!!!!!!!!!!!!セーフ!!!!!!!!!!!!

 

はい。特に何も役に立たない記事でした。

去年こういう記事何個も消してたから毎日の連載が成り立たなかったんだな…と思ったのでクソ記事ですが載せることにしました、はい。

いやあの、これもいくつか理論立てしようといくつか話書いては消えたんですよ、はい。なんか古畑任三郎とか、犯人の名前先に明かすタイプの推理モノだから、なんかそこからネタバレされても楽しいみたいな話につながるかなとか思ったんですが、予想以上につながらなかったです、はい。

「ネタバレされても、自分で楽しめる範囲がまだまだあるんならOK!!」以上の意見が出てこなかったです。はい。

いやあの、ついでにもう一つ言い訳させてもらっていいですか。勝手に話します、はい。

他のつまらんかった作品の例をあげてネタバレの話につなげたかったがつながらなかったし、そもそもつまらんかった作品のこと書いてると「なんでこんなクソな作品のことかかなあかんねん!!!!!!!!!!!!」ってキレそうになったのでやめました。

あ、でもちょっと話します、おわりっていったけどちょっと話します。

ネタバレされなくてもくそつまらん話ってなんだろなて思ったら、「作業感ある作品」と言えばいいのか。「消化してるのが作業でしかない作品」。テンポが悪いとか、引き延ばしがぐだぐだとか、そういう……そう…いう……その……作業感、ある、作品……うんそれもうただの「つまらん作品」以外の何物でもないわ………うん………ちょっと今回のテーマもう少し引っ張りたかったですがもう無理ッス……

何か…何かがひらめきそうでこう…何も進展がなかった……

何か思いついたらそのうち書きます、はい……

明日からはマシなもんが書けるよう努力します、反省…………

いやでも絶対ひらめく…そのうちひらめく…